2011年12月5日月曜日

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編


「わが日の本は島國よ 朝日輝ふ海に 連り峙つ島々なれば あらゆる國より舟こそ通へ」と続く歌詞は、文豪森林太郎(鴎外)作詞による横浜市歌です。街のどこかでこの歌が流れると、思わず口ずさむ市民に出会うことができます。そう、平成になって音頭やブルースにもなったこの歌は日本一歌唱人口の多い市の歌といえるのではないでしょうか。
横浜市歌は小雨降る新港埠頭で行われた「開港50周年記念大祝賀会式典」で市民に披露されました。1909年(明治42年)7月1日のことです。
市民に愛されているこの市歌、作詞者鴎外は有名ですが、作曲者についてはほとんど知られていません。作曲は当時東京音楽大学助教授であった南能衞(みなみよしえ)です。何故、この二人が横浜市歌を作ることになったのか詳細は不明ですが、二人とも「反骨の精神」を持つ気概ある芸術家であったことは間違いありません。

南能衞は明治14年徳島に生まれ、この横浜市歌を作曲した時は28歳でした。作詞者の鴎外が47歳でしたから親子に近い年の差がありました。小さい頃から数学が得意で、徳島師範学校を卒業し尋常小学校教員資格を得ました。すでに徳島市富田尋常小学校訓導に任命されていましたが、休職し好きな音楽教育の道に進むことを選び東京音楽学校甲種師範科に入学します。卒業後、教員となり郷里徳島中学から和歌山師範に移り師範では初の男女混声合唱を指導します。この成果が評価され1908年、母校東京音楽学校に戻り助教授に就任します。順風満帆でしたが、数年後人事で辞表を叩き付けます。
一方、作詞の森林太郎(鴎外)は、明治大正の文豪として多くの作品を残していますが、大秀才で、二歳年齢を多く申告し帝国大学医学部に入ります。語学に堪能で、19歳で本科を卒業後陸軍軍医となりドイツに留学します。この時の異国の恋を描いたのが代表作「舞姫」ですが、軍医との二足のわらじで書いたものでした。1909年『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した夏目漱石と並ぶ文豪となります。
横浜市歌制作時、南能衞は東京音楽学校助教授になり、森林太郎(鴎外)は文学へと傾倒し始めた頃です。鴎外は、軍医の職を持ちながらも、フェノロサのもとに開設された東京美術学校(現東京藝術大学)に1889年(明治22年)美術解剖学講師となり、1892年(明治25年)9月には慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱され日本の美学の基礎を切り開きます。鴎外の偉大な遺産は、文学であり美学ですが、発禁処分、左遷、戒飭(かいちょく)後彼も人事問題で辞表を叩き付けます。
共に正義感が強く、反骨精神の塊だったようです。(後編へ)

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