2012年1月31日火曜日

No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

1月31日はこのテーマしかありません。路線廃止です。
平成16年(2004年)のこの日、71年の歴史に幕が降ろされました。
廃止決定に当たっては、様々な騒動も起きました。
高架線下の名物落書きも消えました。廃線後の線路道はまだ再利用されていません。
本日はこれにて終了、にしようと思いましたが、この日もう一つ廃止になった交通機関があります。1972年(昭和47年)横浜市電がこの日全線廃止となりました。
市電について少し調べてみました。東横線はyoutubeをご覧ください。

「さよなら東横線桜木町横浜」
http://www.youtube.com/watch?v=4hm6BujSBkc
http://www.youtube.com/watch?v=PPuG953IZyc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=acm8d67gWEk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=7Lt0Gmteo_k&feature=related
【横浜市電】


(市電保存館より)
「さよなら東横線桜木町横浜」
関連

No.394 フラワー全開!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/01/no394.html

横浜電気鉄道)

1904年(明治37年)7月15日民間会社の横浜電気鉄道が市内初の路面電車営業を開始しました。区間は神奈川〜大江橋(現在の青木橋から桜木町)です。1921年(大正10年)に横浜市が横浜電気鉄道路面電車を買収します。横浜市電気局の誕生です。1946年(昭和21年)に横浜市交通局になります。
路面電車は軌間(線路の幅)が標準軌で1,435 mmです。関東大震災後、多くの車両が焼失し、不足に陥りました。そこで、現在の京王線(京王電気軌道)から車両を購入します。当時京王線からどうやって車両を運んだか?
京王線の新宿追分駅までまず車両を移動し、市電(都電)との連絡線を経由し、品川まで移動。京浜電鉄経由で生麦まで運んだということですから驚きます。
規格は統一しておくとコストダウンにつながる良い例ですね。運んだ時間帯は不明です。
昭和30年代に最盛期を迎えます。
市電保存館HPより
1966年(昭和41年)に生麦線、中央市場線を廃止したのを皮切りに廃止路線が増えて行きます。そして1972年(昭和47年)市電とトロリーバスが全廃されその姿を消しました。

最終日には「花電車」が走行し、かつての車両もデモで走ったそうです。省エネ時代どこか可能な所を復活させても良いのでは?と思います。
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2012年1月30日月曜日

No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA

参考資料の一つ「横浜近代史照合年表」の中から、1921年(大正9年)のこの日、「鶴屋」が焼失した記事を発見しました。
明治大正期、
大都市に成長した横浜の発展は災害との戦いでもありました。
横浜最大の繁華街「伊勢佐木」の街も様々な火事、そして関東大震災、空襲を乗り越えてきた歴史です。
戦前の横浜年表からは多くの火災記録を発見することが出来ます。
横浜鶴屋といえば「GINZA MATSUYA」の前身、松屋鶴屋呉服店のことです。横浜から育ったデパートのエピソードをご紹介します。

デパートは19世紀の歴史的発明の一つと言われています。
19世紀半ば、パリに産声をあげた、世界初のデパートであり世界最大の大型小売店「ボン・マルシェ」の登場です。
消費を「ニーズ」から「シーズ」に変えた画期的発明でした。
ウィンドウ・ディスプレイや広告、演奏会、バーゲンなどいまではごく当たり前の販売戦略を次々と発明していった『デパートを発明した夫婦』(鹿島茂著)によって時代が変わりました。それから半世紀後、日本でも各地に百貨店に近い商業施設が登場します。
横浜にも呉服店を母体とした大型店舗が登場します。
今日のエピソード、MATSUYA GINZAのルーツは横浜「鶴屋呉服店」です。
創業者の古屋徳兵衞氏は十三歳で甲州白州町から江戸に出て奉公に入ります。
その後幕末の動乱で郷里に帰りますが、再び故郷から横浜に出て呉服の仲買商を始めます。商売も順調に進み慶応4年、20歳の時に横浜緑町(西区)に呉服商を開業します。
その後、石川町亀の橋に明治2年創業したのが「鶴屋呉服店」です。
この時に徳兵衛と改名しました。1889年(明治22年)に転機が訪れます。
経営不振の東京神田今川橋「松屋呉服店」を買収し立て直します。
そして1903年(明治36年)に横浜と東京を古屋松屋呉服店と名前を統一します。
1910年(明治43年)には三階建ての横浜鶴屋呉服店を横浜の商業中心地伊勢佐木町にオープンします。
1919年(大正8年)には株式会社松屋鶴屋呉服店となり、1924年(大正13年)に商号が「株式会社松屋呉服店」となります。
1925年(大正14年)に銀座本店が開業、横浜も吉田橋横浜店、壽屋の合併し浅草にも出店します。
その間、数回の火災、震災の大きなダメージを乗り越えて行きます。
創業者はアイデアマンでした。店員教育の革新、アイデア商売の連続。例えば端切れ布の小売り、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って商品化し人気を博します。一番有名なのが「バーゲン」(特売日)の元祖と言われてます。
MATSUYA GINZAの歴史
また、当時百貨店の情報発信源として注目を浴びていた機関誌(PR誌)でも明治39年に「今様」を発刊します。最初は季刊でしたが後に月刊になります。PR誌としては、三井呉服店(三越)の「花ごろも」、髙島屋飯田呉服店の「新衣装」、白木屋「家庭のしるべ」等に次ぐ後発ですが布地の実物見本を貼付けるなど豪華でデザインが光るPR誌でした。

現在横浜から離れ東京のMATSUYA GINZAとなっていますが、松屋のDNAは先取の気風が満ち満ちていた横浜(現在無いという訳ではありません)にあります。
2007年2008年連続して毎日デザイン賞特別賞受賞、毎日広告デザイン賞の先駆けは1955年のグッドデザイン賞コーナー設置、戦前の「今様」にその革新性があったからではないでしょうか。
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2012年1月28日土曜日

No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

またまた嘉右衛門エピソードです。(20130127一部加筆)

1月27日は高島嘉右衛門の瓦斯会社をめぐる国際競争の話しをしました。
今日は彼が学校を作った話しです。
明治時代は全国に学校が多く生まれた時代です。
1871年(明治4年12月19日)の今日、高島嘉右衛門は伊勢山下と入舟町に私財3万円を投じて語学を中心にした塾を開校しました。
「藍謝堂」通称高島学校と言います。
他の鉄道建設、ガス事業と比べて地味ですが興味あるところです。
高島学校については手元にあまり情報がありませんので少し仮説を含め進めて行きます。
(現在資料を読んでいるところです)
開港150周年記念のお芝居にもなった藍謝堂は、怪商 高島嘉右衛門が手がけた学校です。
創設時、福沢諭吉に協力を求めます。
協力してくれたら子供の留学資金を出そう!
と福澤諭吉に手紙を書くなど 何度か依頼をします。
福沢諭吉は丁重に断ります。(福翁自伝では“高島”のタの字も出さず断ったとあります)
でも本音はかなり不愉快だったようです。
一説では拒絶と伝わっています。
少し長くなりますが「福翁自伝」を引用します。
「■子供の学資金を謝絶すそれにまた似寄ったことがある。明治の初年に横浜のある豪商が学校を拵えて、この慶応義塾の若い人を教師に頼んでその学校の始末をしていました。そうするとその主人は、私に親(みず)から新塾に出張して監督をして貰いたいという意があるように見える。私の家には、そのとき男子が二人、娘が一人あって、兄が七歳に弟が五歳ぐらい。これも追々成長するに違いない、成長すれば外国に遊学させたいと思っている。ところが世間一般の風を見るに、学者とか役人とかいう人が動(やや)もすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修業させることを祈って、ドウやらこうやら周旋が行き届いて目的を達すると、獲物でもあったように喜ぶ者が多い。嗚呼(ああ)見苦しいことだ、自分の産んだ子ならば学問修業のために洋行させるも宜しいが、貧乏で出来なければさせぬが宜しい、それを乞食のように人に泣き付いて修業をさせて貰うとは、さてもさても意気地のない奴共だと、心窃(ひそか)にこれを愍笑(びんしょう)していながら、私にも男子が二人ある、この子が十八、九歳にもなれば是非とも外国に遣らなければならぬが、先だつものは金だ、どうかしてその金を造り出したいと思えども、前途甚だ遙かなり、二人遣って何年間の学費はなかなかの大金、自分の腕で出来ようか如何だろうか、誠に覚束ない、困ったことだと常に心に思っているから、敢えて恥ずることでもなし、颯々と人に話して「金が欲しい、金が欲しい、ドウかして洋行をさせたい、今この子が七歳だ五歳だというけれども、モウ十年経てば支度をしなければならぬ、ドウもソレまでに金が出来れば宜いが」と、人に話していると、誰かその話を例の豪商にも告げた者があるか、ある日私のところに来て商人の言うに「お前さんにあの学校の監督をお頼み申したい、かく申すのは月に何百円とかその月給を上げるでもない、わざわざ月給と言っては取りもしなかろうが、ここに一案があります、外ではない、お前さんの子供両人、あのお坊ッちゃん両人を外国に遣るその修業金になるべきものを今お渡し申すが如何だろう、ここで今五千円か一万円ばかりの金をお前さんに渡す、ところで今いらない金だからソレをどこへか預けておく、預けておくうちに子供が成長する、成長して外国に行こうというときには、その金も利倍増長して確かに立派な学費になって、不自由なく修業が出来ましょう、この御相談は如何でござる」と言い出した。なるほどこれは宜い話で、此方はモウ実に金に焦れているその最中に、二人の子供の洋行費が天から降って来たようなもので、即刻、応と返辞をしなければならぬところだが、私は考えました。待てしばし、どうもそうでない、そもそも乃公があの学校の監督をしないというものは、しない所以(ゆえん)があってしないとチャント説をきめている。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き、前説を変じて学校監督の需(もとめ)に応じようと言えば、前にこれを謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を請け取るのが間違いである。金のために変説と言えば、金さえ見れば何でもすると、こう成らなければならぬ。これは出来ない。且つまた今日金の欲しいというのは何のために欲しいかと言えば、子供のためだ。子供を外国で修業させて役に立つようにしよう、学者にしようという目的であるが、子を学者にするということが果して親の義務であるかないか、これも考えてみなければならぬ。家に在る子は親の子に違いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。如何あっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果さないという理窟はない。親が自分に自ら信じて心に決しているその説を、子のために変じて進退するといっては、いわゆる独立心の居所(いどころ)がわからなくなる。親子だと言っても、親は親、子は子だ。その子のために節を屈して子に奉仕しなければならぬということはない。宜しい、今後もし乃公の子が金のないために十分の教育を受けることが出来なければ、これはその子の運命だ。幸いにして金が出来れば教育してやる、出来なければ無学文盲のままにして打遣(うっちゃ)っておくと、私の心に決断して、さて先方の人は誠に厚意をもって話してくれたので、もとより私の心事を知る訳けもないから、体(てい)よく礼を述べて断わりましたが、その問答応接の間、私は眼前に子供を見てその行末を思い、また顧みて自分の身を思い、一進一退これを決断するには随分心を悩ましました。その話は相済み、その後も相変わらず真面目に家を治めて著書翻訳のことを勉めていると、存外に利益が多くて、マダその二人の子供が外国行の年頃にならぬさきに金の方が出来たから、子供を後回しにして中上川(なかみがわ)彦次郎を英国に遣りました。彦次郎は私のためにたった一人の甥で、彼方もまたたった一人の叔父さんで外に叔父はない、私もまた彦次郎の外に甥はないから、まず親子のようなものです。あれが三、四年も英国に居る間には随分金も費やしましたが、ソレでも後の子供を修業に遣るという金はチャント用意が出来て、二人ともアメリカに六年ばかり遣っておきました。私は今思い出しても誠に宜い心持がします。よくあの時に金を貰わなかった、貰えば生涯気掛かりだが、宜いことをしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉に瑾(きず)を付けなかったような心持がします。」
福沢と高島の接点はどこにあったのでしょうか?
なぜ断ったのでしょうか?
今日はこのあたりのことを少し考えてみます。
その前に「藍謝堂」について。
伊勢山下に開校とありますから、瓦斯会社の近くです。実業家高島嘉右衛門はかなり大規模の学校ビジネスを構想したのでしょう。
実際には学生が集まらずビジネスにならないということであきらめたのか、
開校二年で神奈川県に預けてしまいます。
高島の強い招聘に対し福沢は全てを断る道理も無く自分の代わりに
慶應義塾の教員を派遣します。
福沢は高島学校を訪れることはありませんでした。

(高島学校に学んだ人達)
短期間ですが高島学校では意外な人物が学んでいます。
著名人としては、岡倉天心(東京美術学校、日本美術院の創設者)寺内正毅(軍人、総理大臣)渡部 鼎(医師)が有名です。
渡部鼎は、高島学校で英学と理化学を学び医学を志し(現在の)東京大学医学部に学びます。野口英世が医学を志すきっかけとなった医師です。
野口英世も横浜エピソードが沢山あります。金沢区の長浜の検疫所に勤めていました。

No.387 謎解き野口英世
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1871年(明治6年)11月11日
高島が手放した藍謝堂は、野毛山に新校舎を設立し「横浜市学校」と改めます。翌年『修文館』となりますが焼失し廃校になる運命となります。

さて福沢と高島の関係ですが
慶応義塾は明治に入りしばらく経営難となり資金繰りに苦労します。
そのことを知ったのかどうかわかりませんが、高島は福沢に資金提供を働きかけています。高島流ヘッドハンティングを試みたようです。
当時多くの政治家、外交官と付き合いのあった高島嘉右衛門の申し出に門前払いも大人げないので、福沢はスタッフを送り込むことで彼を敵にしないようにしたのでしょう。
慶応義塾から送り込んだ教師は福沢の側近中の側近、(例えば大阪慶応義塾を立ち上げた名児耶六都とか義塾草創期の盟友小幡甚三郎)を派遣しているところからも、
しっかり塾長福沢の意を踏まえた上で赴任したと推測できます。
高島と福沢はその後、対立していきます。
横浜のガス灯事業に関しては、これも横浜で医師として活躍した福沢の愛弟子で「丸善」を創設する早矢仕 有的が、瓦斯会社売却疑惑を全面批判します。
福沢自身も後に「時事新報」で高島の方法を批判します。
高島がたった二年で「高島学校」を手放したのは
慶応義塾から応援に行ったメンバーがキーワードを揃えて
「学校経営は大変ですよ!」
嘉右衛門の耳元でささやいたからかもしれません。
高島学校は売却ではなく寄付されます。
1873年(明治6年)に「学校設立の功により明治天皇から三組の銀杯を下賜される」と高島は自叙伝で自慢をしていますが実際は大赤字で手放したのが事実のようです。
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No.29 1月29日 福沢諭吉の横浜ワンデーマーチ

福沢諭吉は慶応義塾創立者で多くの言論活動を行った思想家ですが、ここでは家庭での福沢諭吉についてご紹介しましょう。
1888年(明治21年)の今日、 福沢諭吉(53歳)は、家族と約束していた横浜ワンデーマーチを、五人娘のうち三人と実行します。
福沢は筆まめでした。
確認されているだけでも2,600以上の書簡があります。
彼は日記を付けなかったので書簡が彼の日常を追う日々の記録になっています。
「今日は兼ねての約束にて、子供の内、おふさ、おしゅん、おたきと同道、徒歩にて神奈川まで東海道を通行して、夕景に可相成、そこで神奈川発の汽車に打ち乗り帰宅と、唯今支度最中なり。右要用のみ、早々不一。  一月二十九日朝八時  諭吉」
息子達に送った手紙の一部です。
福沢諭吉書簡集第五巻
福沢諭吉には四男五女、9人の子供がいました。
趣味、特技は居合いの名手でした。玄米を精米する「米つき」が健康のための日課で、自宅の改装、増築が好きな普請道楽でもあり、観劇、落語、相撲の観戦も大好きだったそうです。
家庭では、子供達を「さん」付けで呼び、自由放任主義の子煩悩だった様子も手紙で確認できます。
横浜ワンデーマーチの実像にせまりましょう。いっしょにでかけた娘三人。 
次女 房(ふさ)は18歳、
三女 俊(しゅん)は15歳、
四女 滝(たき)は12歳でした。
長女の里(さと)はすでに結婚して家を離れていました。五女の光(みつ)は9歳でまだ徒歩旅行には幼かったのでしょう。
ワンデーマーチの内容ですが、出発地は福沢の自宅である港区三田(慶応義塾に自宅がありました)から明治時代の「神奈川駅」までと想定します。
距離計算で約24キロです。
歩きなれていれば徒歩で時速4キロですが12歳の足では3キロでも早いかもしれません。
約八時間くらいかかると計算しましょう。
食事の時間もあり9時間で夕方(日没)までに「神奈川」に到着するには?
当時の横浜の日没時間を調べてみると17時6分頃です。
朝八時に手紙を書いていますからすぐに出発してちょうどというところでしょう。
福沢の手紙では「唯今支度最中なり。」とありますので、
実際は道行きで道中「鶴見」あたりで時間となり帰宅したかもしれません。
東海道は箱根駅伝でも分かるように、保土ケ谷まではほぼ平坦です。
晴れていれば富士山を眺め、鶴見近辺で東京湾を見ながら生麦事件や黒船の話しでもしながら歩いたのかもしれません。

同じ「神奈川駅」あたりのエピソードとしては

No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン
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福沢は大変子煩悩で家族を大切にしました。
忙しい中でも時間を作り家族旅行、自宅でのパーティを楽しんでいます。

※(当時の鉄道)明治21年当時は横浜(桜木町)と田町間を汽車が走っていました。
その間には東京から「品川」「大森」「川崎」「鶴見」「神奈川」駅がありました。
昔の「神奈川」駅は現在の京浜急行神奈川駅ではなく現在の横浜駅そばにある台町近辺です。
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2012年1月27日金曜日

No.27 1月27日 ニッポン、国際コンペに勝つ

電信が東京横浜間に開通した翌日1871年(明治3年12月17日)の今日、神奈川県から横浜市内でガス灯事業を展開する事業免許が「日本社中」に下りました。
ところが、この免許申請にいち早く手を挙げ決まりかけていたドイツ商社から抗議が出ます。県の認可はオカシイ。「日本社中」は後から申請したではないか!公正でない!というものです。この認可は、外務省、神奈川県、居留地の外国公使を巻き込みます。現代でもありそうな話しです。今日はこのガス事業をめぐるエピソードをご紹介します。

横浜は最初に開国した港ということもあり、多くのはじめて物語があります。ガス灯関連に関しても書籍やネットで情報発信をしていますので少し別な角度からこの日本初のガス事業について調べてみました。
★(意外と誤解されていること)はじめてガス灯の点灯に成功したのは横浜ではありません。大阪です。横浜は(ガス灯)瓦斯事業がはじめて起こされた街です。
【本編】
国際商取引のルールは時代に応じて変わります。時代の力関係、政治制度等を含め現在の常識では計れないことが往々にして起ります。
明治初期に起ったガス灯を巡る国際競争の視点からこの事件を考えてみます。
ガス、電気、鉄道、法律、武器、通信様々な外国基準が日本を襲います。
ガス灯事業も幕末から居留地の外国人から提案されていたインフラ整備でした。幕末にアメリカ、明治政府になってドイツ、イギリスの各商社がガス灯を作りたいと免許申請に手を挙げます。欧米のスタンダードモデルを提案してきたのです。国も神奈川県もかなり強い関心を示します。アメリカ、イギリスが却下されたこともあり「ドイツ」に決まりかけていました。
ところがこの事業「待った!」と手を挙げたのが高島嘉右衛門率いるジョイントベンチャー「日本社中」です。名前がふるってますよね。
今で言えば「チームニッポン」ってとこです。ここには「ナショナリズム」が働いています。また時の欧米の政治状況も繁栄しています。当時の日本政府(外務省)と居留地の一部の国がドイツにガス事業のインフラを任せることに難色を示した結果、急遽「日本社中」を組みドイツに対抗します。
同時期、これも欧米各国から鉄道事業に関して建議があり、日本政府は注意深くイギリスに東京横浜間の鉄道敷設を依頼しています。おそらくライバルドイツは「ガス灯は取るぞ!」とプロジェクトを立てたに違いありません。しかも暗い居留地をなんとかしようという要望は居留地各国から出ていたようです。日本政府も当初居留地内だったら(外国資本でも)構わないのではないかと考えていましたが、ガス灯を含めたエネルギー事業は日本の管理下におくべきだという意向がこのガス灯事業にも働きます。
後から手を挙げた「日本社中」にガス事業を許可します。日本チームは技術的裏付けをスイス商社シーベル・ブレンワルト商会を介してフランスに求めます。認可が覆ったドイツは面白くありません。居留地各国に異議を出します。


No.364 12月29日(土)小国の独立力
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(しぶしぶかどうかわかりませんが)
外務省と居留地の各国公使が集まり協議します。そこで出された案が居留地の各国による発注投票でした。スイスはドイツと半ば戦争状態、欧州でどんどん国力を増しているドイツにフランスもイギリスも警戒感を強く持っていましたから事実上のドイツ敗北です。(ドイツ領事はドイツ独占を正当と主張、協議会の席を途中退出したそうです)
再度「日本社中」にガス灯事業が決り一気に事業が始まります。シーベル・ブレンワルト商会はプレグランという若き優秀なフランス人技術者を紹介し、彼がこの責任者となります。
1872年10月はじめて街中にガス灯が点灯します。
※これに関しても謎の事実がありドラマが隠されているようです。
この騒動前にプレグランが設計したガス事業の設計図が横浜市に残っているそうです。実は仮プランが彼の下で既に進んでいたのでは?真実はわかりません。
※高島の瓦斯会社はその後町会所に売却されます。
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2012年1月26日木曜日

No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始

今日1870年1月26日(明治2年12月25日)のこの日
横浜と東京間の商用電信通信網がビジネスを開始します。
電信創業の地の記念碑が現在の横浜地検前に建てられています。
18世紀に蒸気機関による動力(産業)革命が起きた世紀です。
19世紀は通信技術による情報革命の世紀となりました。モールスの電信の発明の次にはグラハム・ベルの電話が実用化され世界経済に情報という新しい波が大きく影響力をもたらすようになります。
このイノベーションは幕末・明治の日本を直撃しますが、世界が驚嘆する技術力(キャッチアップ能力)を発揮し、一気に世界レベルに追いついて行きます。

1873年(明治6年)には東京~長崎間に電信線が開通し、その後約4年間で国内の電信線網の骨格を完成させます。このインフラ整備が、生糸を始めとする国内市場の形成に重要な役割を果たしたことはいうまでもありません。
(おやとい)
この技術力は明治初期に政府が巨額の資金をつぎ込んだ「お雇い外国人」から集中的に学びます。同時に、日本政府は技術官僚を育てるために人材育成を行い飛躍的な発展を遂げることになります。

No.293 10月19日(金)Citizen of No Country
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No.204 7月22日 (日)一生を世界一周に賭けた男
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No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成
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No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人
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No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!
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No.154 6月2日(土) 華麗なる居留地ビジネス
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(英才教育は「寮」から)
当時、短期間で大量の技術者を養成したのが明治4年工部省の下に開設された「寮」という専門機関でした。
鉱山寮、製鉄寮、造船寮、鉄道寮、灯台寮、電信寮など「寮」という名の各部門からは多くの人材が育って行きます。
中でも「電信寮」からは、沖電気の創業者沖牙太郎、東芝の前身である白熱舎を創設した三吉正一、珍器製造所の田中久重、後に横浜市長となり横浜市歌を依頼した三橋信方も明治5年電信寮に入りその後、外務官僚となっています。
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
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No.194 7月12日(木)ソシアルビジネスの鏡
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1880年(明治13年)の予算削減で工部省は大幅な組織変更を迫られ、次第に役割を他に移管して行くことになります。

話しを電信と横浜に戻します。
実は、慶応3年暮れ(1867年か68年)に「横浜の貞次郎と東京の栄蔵なる商人が、江戸・横浜間の電信架設を出願」して許可されましたが(維新による)政権交代のために実現しませんでした。
その後、ブラントンの主導でイギリス人ギルバート(J.M.Gilbert)が招聘され、1869年(明治2年)横浜元弁天にある灯台「弁天灯明台役所」と横浜裁判所(現在の税関)の間760mに電信設備を架設し通信技術の教育を行い、これが日本最初の電信施設となります。
この時の電信施設建設要請は、神奈川県知事“寺島宗則”が建議し前述の「寮」の一つ「灯台寮」から政府に出されました。

横浜と東京間の電信通信は大変人気で、開業三ヶ月で3,000通の申込があったそうです。
(飛脚より安く早いということですが、昔から安くて早いはビジネス原則ということですね)
国際電信も同時に進められます。
1871年(明治4年)には長崎から上海とウラジオストクが海底電線で結ばれ日本最初の国際通信網が引かれます。また韓国(李氏朝鮮)とは1883年に呼子町(佐賀県)〜釜山間が結ばれます。

(電話交換)
電話利用者が増え、回線が急増します。そこに必要となったのが「電話交換業務」です。1890年(明治23年)12月16日横浜と東京間にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。
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2012年1月24日火曜日

No.25 1月25日 馬車道の華

「横浜の酒場に 戻ったその日からあなたがさがして くれるの待つわ昔の名前で 出ています」
(「昔の名前で出ています」作詞星野哲郎、作曲叶弦大、編曲斉藤恒夫)
小林旭のヒット曲だ。
資料を探している時、地名や施設名が時を経て変わることが往々にしてある。時代を特定するヒントになるが、逆に事実が見えにくい時もある。
でもこれが歴史を調べる時の愉しみでもある。
昭和45年(1970年)のこの日中区馬車道にある「横浜宝塚劇場」が改装オープンし「市民ホール」となった。そして1986年に老朽化などを理由に新しく建て替えられ現在の「関内ホール」ができた。
「横浜宝塚劇場」から「市民ホール」へ。そして現在「関内ホール」として馬車道の華となっている。

個人的には常々「馬車道ホール」という名が良いなと思っている。
正式名称は横浜市市民文化会館という。馬車道TVKホールってネーミングライツしたら?(そんな話しは出ていません。)

馬車道界隈は開港のころ、文字通り「馬車」が走り抜け大きな金融機関、様々な商店が立ち並ぶ最先端のガス灯が明るいモダンな通りだった。
横浜開港場には外国船が停泊するイギリス波止場とは別に、国内をつなぐ船が数多く利用する日本波止場があった。馬車道はこの日本波止場と居留地を支えた関外エリアをつなぐ吉田橋を一直線に結ぶ開港場のメインストリートだ。戦後その界隈性を残すため、いち早く通りをモール化した都市デザインの先駆的商店街でもある。現在も万国橋からイセザキまで、ブラリ歩きには最高の道だ。

昔から 賑わいには劇場がつきものだ。昭和10年(1935年)4月1日、横浜宝塚劇場(通称ヨコホウ)が住吉町4-42に開館した。1スクリーン、1305席(別資料では1440名)を擁する大劇場・映画館だった。
「関内馬車道に出現した待望の東宝直営横浜宝塚劇場はいよ々々明後四月一日咲く桜に魁て華やかに蓋を明ける。昨年十月廿八日着工して以来、完成開場まで僅五ヶ月といふスピード建築の恐らく記録をつくつた清水組設計に成るこの横宝劇場は鉄筋鉄骨コンクリートの三階建で建坪四百十坪、延坪八百三十坪収容人員は千四百四十名このうち階下が九十一名定員となつてゐる(後略)」(『横浜貿易新報』1935年3月30日付)
劇場前にあったうなぎの老舗「わかな」が人気の店だったと言う。
(現在はすこし場所を移動している)劇場とグルメにはグルメも欠かせない。
戦争を挟んで人気だった横浜宝塚劇場は、昭和45年(1960年)横浜市に譲渡され改装「市民ホール」としてオープンした。その後、昭和61年(1986年)宝塚劇場時代から約50年経たこともあり老朽化などを理由に建て替えが行われた。
これが現在の「関内ホール」である。関内ホールと言えば、第13回 高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した世界的彫刻家マルタ・パン(Marta Pan)の赤いオブジェ、「平和1」「平和2」が表玄関と楽屋口を飾る。(時には近づいてみよう)
座席数は1102席。主に落語などの寄席、ミュージカル、演劇、講演会等に利用されている。志の輔の横浜拠点、関内寄席 『立川志の輔 独演会』はもう何回目になるだろうか。
ホール玄関前広場の「馬車道ショートパフォーマンスライブ」も大きく育って欲しい。ヨコハマ映画祭も1987年以降関内ホールで開催されている。


■今また、このホールを軸に馬車道の賑わいが欲しいものだ。

※番外編
もう一つの馬車道映画館。
戦後横浜で映画と言えば、馬車道の横浜東宝会館だった。東宝会館は昭和31年(1956年)3月27日に開館しイセブラと映画鑑賞が当時の定番デートコースとなった。残念ながらシネコン時代の到来とともに平成13年(2001年)11月29日に閉館し、現在はビジネスホテル「リッチモンドホテル(オープン当時はロイネットホテル)横浜馬車道」が建っている。

(ホテル外観)

冒頭の歌詞に関して
引用としての利用(著作権法第32条)許諾を得ずに複製、口述などによる引用ができる条件に入っている?引用も文化論として議論すべきテーマかな。
①公正な慣行に合致する引用であること
(自分の著作物と他人の著作物との間に妥当な主従の関係があること)
(引用する部分が明確に区分されること)
②引用の目的上正当な範囲内で行われること(引用の必然性があること)
③公表された著作物の利用であること
許諾を得ずに引用できる場合であっても、原則として出所を明示しなければならない
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No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ

米国は
南北戦争(The Civil War, 1861年 - 1865年)で中断した
50年代の「フロンティアプラン」を再燃させます。
西へ、西海岸の先に広がる太平洋をさらに西へ。
合衆国政府支援を受けた
Pacific Mail SteamShip Co.太平洋郵船(以下PMSと略)船籍のColorado号は、
金門(ゴールデンゲイト)を1867年(慶応2年)1月1日に出発し
進路を西北西にとり
1867年(慶応2年12月19日)のこの日1月24日横浜に入港しました。
日米間(サンフランシスコー香港間の中継地として)初の定期航路運行が始まります。
この定期航路は単に日米関係だけではなく「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」日本の未来を左右する「情報革命」「物流革命」の幕開きでした。
(PMSのドックで二隻のうちどちらかがコロラド号)
(アジアの拠点戦略)
横浜(日本)は、米国の西方市場(東アジア)への重要中継点でした。
太平洋の定期航路開設は米国の宿願でした。
大西洋航路は英国に奪われ、インドを含めたアジア市場はスエズ運河開通でさらに英国勢力下にありました。二度の独立戦争であまり英米関係もあまり思わしくない状況でした。

しかし、国内のエネルギーは国外へ向きます。
1850年代に狂喜乱舞するゴールドラッシュの時代がこの国を変質させます。
米国が次に拡大する市場を、宿敵英国及び欧州列強が牛耳る「中国大陸」に標準を合わせたことに始まります。スタートはアジア太平洋の“捕鯨”から始まります。
ハワイに拠点を築き、環太平洋へ
この戦略は2013年の現在も続いています。
(英国に遠く)
米国はゴールドラッシュ以前は全く無関心だった太平洋です。
16世紀から17世紀の太平洋はスペイン商船が闊歩するSpanish Lakeと呼ばれていました。
もともと
サンフランシスコも1776年にスペインが上陸し作った街でした。
※聖フランシスコですから
米国が東部から西部開拓をほぼ終え、その先に広がる太平洋に次ぎなるターゲットを模索したことはごく自然なことでした。
しかも二度の独立戦争を経て、英国との経済的独立を迫られていました。
太平洋郵船PMSは
もともとゴールドラッシュに沸く西海岸と東海岸をパナマ経由で結ぶために1848年に創業された海運会社でした。
といっても、この頃パナマ運河はまだ無く陸路を使って西と東を結ぶルート(パナマ鉄道)でした。PMSはその西側を担います。
(何故海路?)
アメリカ大陸は1840年頃まで
ミシシッピー川を挟んで東を(東部)と呼び経済の中心部でした。
西部はまさに西部劇で言うテキサス、南西部のことで
西海岸はゴールドラッシュ前は未開拓地でした。
西海岸への道は、ロッキーとシエラネバダが大自然の壁となり、また先住民との領土争いというリスクも持ち合わせていました。
当時、大陸間横断は(武器を片手に)幌馬車隊で数ヶ月かかります。
ジョンウェインの世界、ララミー牧場、ローハイドの舞台です
ところが西海岸からパナマを経由するルートは、
途中陸路はありますが“船を乗り換え”数週間で結ばれていました。
当然海運会社も乱立・競合状態が生まれます。
(鉄道が馬車を駆逐)
1869年5月10日に大陸横断鉄道がオマハからサクラメントまでの 2,826 km(1,756マイル)を一週間で結ぶことで一気に海運会社は淘汰されます。
PMSは、いち早く西海岸の近海航路から“太平洋”という未知の航路開拓というチャレンジに出ます。
合衆国政府による太平洋航路航路運営会社公募に参加したのは唯一Pacific Mail SteamShip Co.(PMS)でした。
この太平洋航路開通に政府援助はありましたが条件も厳しく誰もチャレンジしようとは考えませんでした。
「月一回以上の定期運行と外洋航海に十分絶えられるファーストクラスの蒸気船で3,000tクラスを用意すること」
航路はホノルルと日本を経由し中国まで結ぶことでした。
(物流革命)
太平洋航路が定期化することで欧州からアジア大陸に向かいたい場合、
いくらスエズ運河が便利でもインド経由は時間がかかり過ぎることになります。

最新の大西洋航路の蒸気船に乗りアメリカ東海岸経由、大陸横断鉄道でサンフランシスコまで出るルートが資本の移動に革命をもたらします。
1876年には大陸横断超特急が開通し、ニューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで83時間39分の記録を作ります。
そして、サンフランシスコから約一ヶ月程度で横浜
そして香港まで到達できるようになったのです。
まさに西ルートのロジスティック・ハイウェイが完成したことになります。
(Spanish LakeからAmerican Lakeに)
サンフランシスコを出発した第一号のColorado号は
最新鋭排水量3,728トンの商船でした。
米国にとって620 tという吹き飛ぶような船で太平洋を横断してきた
咸臨丸ショック”は大きかったのです。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no262-918.html
No.359 12月24日(月)咸臨丸始末記2
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/12/no3591224.html


PMS社の西海岸用の蒸気船は通常1,000から2,000t程度だったことも含め比較するとColorado号の大きさがわかるでしょう。
その後米国PMS社
City of Tokyo 号、
City of Beijingを皮切りに4,000t級を続々投入します。
この定期航路を使って多くの「お雇い外国人」が来日します。
また多くの日本人が欧米を目指しました。
もし日本に来る太平洋ルートが確立していなかったら
生命の危険を犯してまで未知の国日本に3,000人近いテクノラートは訪日したでしょうか。

そして 彼ら無くして日本の“欧米化”文明開化、殖産興業は進みません。そして欧米化に必要な外貨を稼いだ“限りある原資”は、
この航路によって大量に買い付けられたシルク、そしてお茶であることは意外と知られていません。
(ある沈黙)
明治期に入り、日本から米国の姿が消えます。影響力はイギリス・ドイツが全面に出てきます。この時期、米国は静かに国力を計りながら機を熟すのを待つことになります。
黒船以降約55年、
太平洋航路開通後40年の
1908年10月、16隻の軍艦に14,000人の軍隊を乗せたGreat White Fleet(白い艦隊)は横浜に入港します。
日露戦争に勝ったばかりの日本に対し最初の軍事的プレゼンスを行います。
日本は、友好色を前面に打ち出し、米国の狙いを躱したとされていますが?
果たしてそうだったのでしょうか。
【余談】
この太平洋定期航路にはもう一つのミッションがありました。
中国大陸から大量の労働者をアメリカ大陸に送り込む苦力(クーリー)船の役割も担っていました。
南北戦争後奴隷解放宣言をした米国は黒人に頼っていた低賃金労働力が不足します。
その補充にアヘン戦争と太平天国の乱等で疲弊する中国から
1860年代には64,000人、
70年代には123,000人、
80年代には61,000人が移民(苦力)として移送されています。
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2012年1月23日月曜日

No.23 1月23日 大正の正義

国会は誰のためにあるのか?
大正に入り議会政治は徐々に成熟しつつあった。
神奈川一区(横浜)選出の島田三郎は、大正3年(1914年)のこの日開かれた第31議会衆議院予算委員会で、一通のドイツ発外電電文を元に海軍をめぐる贈収賄事件を厳しく追及した。歴史に残る政財界を巻き込んだ一大疑獄事件シーメンス事件が国民の前に晒された瞬間である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/シーメンス事件
シーメンス事件(シーメンス・ヴィッカース事件)とは、海軍出身の山本権兵衛ひきいる内閣を倒壊させた海軍の装備購入に関する贈収賄事件である。

事件の発端は、ドイツ有数の重工業会社であるシーメンス社東京支店社員カール・リヒテルが自社の機密文書を持ち出し、東京支店長を脅迫したことにはじまる。
同支店長は脅迫を拒否、リヒテルはこの機密文書をロイター通信特派員アンドルー・プーレーに売却しドイツへ帰国。リヒテルはその後恐喝未遂罪で逮捕され裁判が始まる。
その公判審理中、彼の持ち出した文書の中に日本の海軍将校にシーメンス社が贈賄していた記録文書が含まれることが外電によりあきらかになった。事態は俄然、海軍の腐敗問題に発展すると同時に、海軍を母胎とする山本内閣の責任問題に発展したのである。

これに関しては書籍およびネットにも詳しいので詳細はそちらに譲る。
島田三郎肖像
私が注目したシーメンス事件を巡るポイントを幾つか。
■この国会に山本内閣は、海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していた重要な時期であった。(予算案は不成立になり内閣総辞職)
■この事件の背景には維新以来の陸海軍を分つ藩閥政争があった。長州閥は陸軍、薩摩閥は海軍に影響力が大きく 陸海軍の軋轢は昭和にまでひきずることになる。
■前年の大正2年には30年続いた藩閥政治への批判が高まり大正政変で第3次桂内閣(桂は長州派閥陸軍大将)が倒れた。(山本権兵衛は薩摩派海軍大将)
■疑獄捜査の途中、汚職事件はさらに広がりイギリスのヴィッカース日本代理店である三井物産の贈賄まで明らかになるが中途半端な結末となる。
1914年6月に第一次世界大戦の勃発もあって海軍の責任は3名の軍人を有罪にとどまり三井物産は社長職引責辞任ただけでこの事件は終結。軍産癒着構造にはメスを入れられないまま終結する。
しかし、ジャーナリスト出身の島田三郎の果たした大正の正義は、国民が民主主義を実感するキッカケとなる。時代は大正デモクラシーのうねりの中にある。

(余談)
この事件を契機に破天荒な海軍省改革を行った八代六郎という変わり者がいた。
彼は、次の海軍大臣として大改革をする。
軍を藩閥から切り離し(海)軍による権限拡張を抑止し、政府の方針と綿密に連携するコントロールできる軍隊への一大改革を行った人物である。
秋山真之、広瀬武夫の海軍兵学校時代の恩師であったといえば、思い出す人も多いだろう。八代六郎海軍大将、愛知県犬山市出身で水戸藩浪士・八代逸平の養子となり海軍兵学校に入学。「坂の上の雲」では片岡鶴太郎が演じた役どころである。
明治28年(1895年)から31年までの3年間、ロシア公使館附武官を勤め、対ロシアの諜報活動に勤めた時代の後輩に広瀬武夫がいる。
明治44年(1911年)海軍大学校長に就任し、教官として着任した軍令部第1班長・秋山真之が着任する。
八代六郎、大正2年当時楽隠居コースと言われた舞鶴鎮守府司令長官に就任し、事実上の引退となる予定だったが、大きく人生が変わる。
このシーメンス事件で海軍は大混乱に陥っていた。
混乱収拾のため、海軍大臣の指名を受けた八代は海軍大学校の部下であった秋山真之を海軍次官に推薦するが慣例無視で強く拒絶された。そこで秋山を軍務局長に任命し、腹心としてそばに置くことに成功し、大改革に踏み切ることになる。

(関連ブログ)

No.290 10月16日(火)文士の大家さんは法律家
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/10/no290-1016.html



※島田三郎(しまだ さぶろう、1852年12月17日(嘉永5年11月7日) -大正12年 1923年11月14日)は、日本の政治家、ジャーナリスト、官僚。幼名は鐘三郎、号は沼南。帝国議会開設後は、神奈川県第一区(横浜市)選出の衆議院議員として連続14回当選し、副議長、議長を務めた。『横浜毎日新聞』主筆(出展:Wikipedia)
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2012年1月22日日曜日

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)

2011年、仕事の合間に「横浜とお茶」をテーマに調べている時、大谷嘉兵衛という人物に出会いました。日本のお茶産業の振興に情熱を捧げた彼は、横浜村の鎮守のために「伊勢山皇大神宮」を野毛山に遷座し初代氏子総代の一人となります。
1931年(昭和6年)1月22日の今日、伊勢山皇大神宮境内の一角で大谷嘉兵衛翁銅像の除幕式が行われました。
「横浜とお茶」にまつわるエピソードはたくさんあります。
これから折をみて紹介していくことになるでしょう。
今日は伊勢山皇大神宮と大谷嘉兵衛について簡単に触れておきます。
1931年(昭和6年)1月22日大谷嘉兵衛翁銅像の除幕式挙行」
ならば
大谷嘉兵衛の像または碑が伊勢山皇大神宮にあるはずだ
ということで神社内を歩いてみましたがそれらしき像が見当たらない。
現在もネット検索上では、大谷嘉兵衛の碑が伊勢山皇大神宮境内にあるというテキストが幾つか掲載されています。本当のところを確認するために社務所で事実関係を聞いてみると「ありません」というそっけない答えでした。

ネットで出てきたデータは間違いか?
さらに資料を探すと、
浜田猶三氏の手紙の紹介があり
『(前文略…当横浜市にも郷土出身吾々の大先輩 故 大谷嘉兵衛翁が市民から忘れ去られて行く事は遺憾の極みであります。翁は当横浜の草分けの一人であり、戦前までは野毛の伊勢山大神宮の庭前に銅像が建立されていましたが、戦争のなかばに鋼鉄の不足で回収せられ長らく台石のみが残って居りました。所が昭和二十年頃 前市長半井清氏の奔走で高さ五メータ位の顕彰燈籠が建てられましたが、神宮所では神前結婚式を行う為め今では自動車の駐車場同然で誠に嘆かわしき次第です。…以下略)』
という内容がでてきた。
再度伊勢山を確認することにしました。
そういえば以前伊勢山皇大神宮が“破産”する原因となったホテル海洋亭建設の際、表参道の駐車場を大きく改装したことを覚えています。
その時に外されたか、除去されたか。
その可能性が高い。しかし 事実は薮の中です。

銅像になった大谷嘉兵衛は、現在の三重県松阪市に生まれました。1862年(文久2年)17歳の時に横浜に出て、故郷の隣村出身小倉籐兵衛が経営する横浜北仲通り「伊勢屋」に奉公します。
関西屈指のお茶の生産地だった伊勢の製茶貿易に就きます。
彼に大きな転機が訪れます。お茶関係の貿易経験を活かして「スミス・ベーカー商会」の製茶買入方として働き始めます。
ここで彼の才能が開化します。ビジネス感覚と国際感覚を身につけ日本を代表する実業家の実力を磨きます。
彼のエピソードを一つ紹介しておきましょう。
幕末好調だったお茶の対米輸出も、大変浮き沈みの激しい業界でした。特に最大の輸出先だったアメリカが戦費調達のために“お得意の”高い関税を決め、日本国内お茶産業が大打撃を受けます。
この状況に対し、大谷は積極的行動に出ます。
アメリカに対しコーヒーは無税、茶に重税とは不合理と主張し、当時のマッキンレー大統領にも直談判します。その後、茶関税は廃止され輸出はふたたび伸びたため瀕死のお茶業界が復活したそうです。気骨ある明治人の一人でした。
その後
横浜市会議員、神奈川県会議員に推挙され、議会では議長を務めるなど、政治家としても活躍した大谷嘉兵衛は、晩年亡くなるまでお茶業界振興に尽くしました。
1931年(昭和6年)1月22日のこの日、翁銅像の式典が行われてから二年後の1933年(昭和8年)2月3日90歳でその生涯を終えました。
処世訓は
「修養は怠るなかれ」
「信用は人生の花」
「人は平等、金は共通」
「用心は処世の要道」
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2012年1月21日土曜日

No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

岸田 吟香(きしだ ぎんこう)という人物を知っていますか?
開港、そして「はじめて物語」では欠かせない横浜ゆかりの人物です。
1880年(明治13年)のこの日、
岸田 吟香は日中間の薬事業拡大のため横浜港から東京丸で中国上海に向かいます。
その後1890年代まで、毎年のように上海に出向き、
日中間の薬事ビジネスを成功させた異色の実業家です。
単に横浜港から出発した有名人をテーマにすることは避けたいと思っていましたが
この日の渡航が彼にとって重要な旅立ちだったので
岸田 吟香の「この日」を紹介します。
(三省堂「画報日本近代の歴史5」より)
幕末明治期には破天荒な人物が多く輩出しています。
ギンコウも代表的な豪傑の一人と言えるでしょう。
岸田 吟香は1833年(天保4年)美作国久米北条郡垪和村に生まれ、
19歳で江戸に出ますが病気で郷里に戻ることになります。
故郷で英気を養い、再度23歳で大坂へ向かいます。
大阪では漢学を学び、翌年には江戸の藤森天山に入門しますが、師匠の天山が幕府に追われる身となり、ギンコウも上州伊香保へ逃れることになります。
決して順風ではなかった彼にチャンスが訪れます。
1863年(文久3年)4月
ギンコウ、眼病を患い横浜にヘボンを訪ねたことから彼の人生が変わります。
ヘボンと“ウマが合った”ギンコウは
横浜で“居留地”を隠れ蓑に匿名新聞を創刊し自由な意見を展開し成功します。
これが「横浜新報 もしほ草」新聞です。
1868年(明治元年、慶応四年)に米国人バン・リードEugene M.Van Reedが主宰し岸田吟香が共同で横浜居留地内で発行した(ことになっている)新聞で、週2回刊で記事のほとんどは岸田吟香が執筆したものでした。
リードの名は吟香が筆禍(言論弾圧)を免れる為の隠れ蓑的存在で、
実際新政府の検閲を逃れ、自由な発言を行います。
「もしほ草」は木版刷り、半紙四つ折、四六判、
一行20字詰め、一面10行、唐紙片面刷りの袋表紙、
萌黄色の絹糸二箇所綴じ出版デザインとしても素晴らしいものです。
広告記事が一切無く、仮名混じりの平易な文で書かれています。
「…余が此度の新聞紙は日本全国内の時々のとりさたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海、香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且月の内に十度の余も出板すべし。それゆゑ諸色の相場をはじめ、世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせることなし。また確実なる説を探りもとめて、決して浮説をのせず。…」
その他、ギンコウは様々なビジネスに関係していきます。
汽船事業、骨董玩具店、氷の販売店開業とビジネスの目利き感覚は冴え渡ります。
自分の目の病気治療で出会ったヘボンとは意気投合し、
日本初の「和英辞書」を彼と恊働編纂、
上海で9ヶ月かけて印刷して販売し第三版まで発刊する売れ行きを示します。
ジョセフ・ヒコの“はじめての国産新聞”を手伝い、
日本初の従軍記者として文筆活動の傍ら
ヘボンにヒントを得た眼薬「精錡水」の販売で大成功します。
さらにジャーナリストから足を洗い薬業に専念しますが、
日中交流事業の草分けとして日中交流、初期アジア主義の組織化にも尽力します。
また盲学校作りにも情熱を注ぎ教育者としても多大な功績を残しました。

眼薬「精錡水」を軸に吟香は銀座に楽善堂という薬業店を開業します。
この出店も成功し中国進出(上海支店オープン)のため横浜港から上海に渡った日が、
1880年(明治13年)1月21日です。
その後、楽善堂上海支店も順調に実績を上げます。
この時代、アジア主義も岸田が意図した興亜の方向から、
いわゆる脱亜の方向に向かって行くことになる転換期ともなります。

岸田 吟香の四男は洋画家で有名な「岸田劉生」です。
(おじいちゃん似だよね)
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2012年1月20日金曜日

No.20 1月20日 鶴見線「73型電車サヨナラ運転」

「オタク」最近では「熱中人」という名の不思議な人たちがいる。私もその一人かもしれない。興味外の者にとって「そこが好き、夢中になる」理由が全く分からない。
1980年のこの日鶴見線「73型電車サヨナラ運転」があり別れを惜しむ多くの「鉄男君」に見送られた。(私も元鉄男君)鶴見線自体もかなりマニアックな路線だが、ここに最後の姿を求めて鉄道ファンが押し寄せた。

まず鶴見線を紹介しておこう。まず普段は乗ることの無い路線だ。ここ20年は鉄道ファンの人気路線だが、最近では現代アート展が行われたり、廃止となった旧式車両の展示会を行ったりしている。おすすめは「国道駅」「海芝浦駅」だ。国道駅も海芝浦駅も駅ごとに語りだしたら止まらないほどエピソードたっぷりの駅だ。海芝浦駅の敷地は東芝の私有地で、改札から外には社員、関係者以外降りることができない。それでも一般客が絶えないのは、駅構内に海芝浦駅に隣接する私設公園「海芝公園」があるからだ。東芝京浜事業所が敷地の一部を使用し、運営・管理、入園無料、開園時間は9:00 - 20:30でここから見る風景はすばらしい。(工場夜景で人気沸騰、夕景も良い)
(海芝公園)
(海芝浦駅はまさに海の中にある駅のようです)

もともとJR鶴見線は私鉄だった。「鶴見臨港鉄道株式会社」が経営する路線で戦前、京浜工業地帯の鶴見川崎エリアの工場に貨物や人を運ぶために開かれた。昭和18年に戦時買収され、保有する鉄道路線が国有化となり現在に至る。
その時に「鶴見臨港鉄道株式会社」は鉄道部門を切り離したまま事業継続し不動産を中心にした事業で現存する。もう一つ、鉄男君系エピソード。
この臨港鉄道の系列会社だった「鶴見川崎臨港バス」は1938年12月に合併で「川崎鶴見臨港バス」と社名が入れ替わるという面白い社名変更をした。現在は京急の系列会社になっている。

鶴見線、駅名に注目して欲しい。

(路線図)
「鶴見小野は地元大地主の小野信行、浅野は浅野財閥の創設者で、鶴見臨港鉄道の設立者でもある浅野総一郎、安善は安田財閥の安田善次郎、武蔵白石は日本鋼管(現在のJFEスチール)の白石元治郎、大川は製紙王の大川平三郎から取ったものである。扇町も浅野家の家紋の扇に因む。また、国道15号が近くを走るから「国道」、昭和電工扇町工場が近くにあるから「昭和」、石油精製所の近くにあったことから「石油(後の浜安善)」、曹洞宗の大本山である総持寺の近くにあったことから「本山(廃駅)」など、あまりにそのままな命名がされた例もある。」(wikipedia引用)

次に表題の73型電車がなぜファンの心をつかんで離さないのか?
まずその前に、73型とは“モハ73(後のクモハ73)、又中間電動車に改造されたモハ72型”を総称して73型電車という。モハ?クモハ?
鉄道車両には製造番号と型式番号がついている。これがまたファンにはたまらない。
いろいろ詳しいものがあるがこれが簡単で分かりやすい。
http://asuzuki.la.coocan.jp/hp3/train41/tetumame.htm参照されたし。

そもそも73型は戦争直後の旧型通勤電車を代表する型式で、限られた資材と設備の中で最大限に効率的な電車を量産するために設計された車両だ。
73型製造のキッカケは昭和26年に起きた桜木町事件(4月24日)だ。詳しくは桜木町事件そのものの話しは4月24日で書く予定だ。この桜木町構内で起った車両火災事故で死者106名、負傷者96名の犠牲者を出した鉄道事故史に残る大事件となった。その教訓として急いで改造が行われたのが72系である。戦後の復興期を代表する車両だった。高度成長が進むに連れて、新規車両が登場する。運ぶ機能から快適を指向し始める。どんどん廃車になって行く。そして、鶴見線で走っていた「最後の車両72型」が国鉄路線から消える!
ということで鉄道ファンを集めたのだ。
(表情がちょっと可愛い、食パンのような窓)
72系引退そして新101系の投入を記念して、鶴見線全線と南武線浜川崎支線が乗降自由となる「鶴見線フリー乗車券」が発売された。価格は大人200円・小人100円で、乗車券は発売日当日のみ有効。鶴見駅・浜川崎駅・川崎新町駅・尻手駅で発売されたそうだ。
現在鶴見線は昭和を感じる観光路線にもなっているようだ。
日曜日には臨時電車も出ているようなのでレトロ路線の旅、ぜひ一度お試しあれ。

No.177 6月25日(月) 出られない出口
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2012年1月19日木曜日

No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

1953年(昭和28年)のこの日、
東急電鉄会長、五島慶太は大山街道沿いの地主58名を招き「城西南地区開発趣意書」を自ら発表した。
五島慶太(1882年(明治15年)〜1959年(昭和34年))が語った「城西南地区開発趣意書」は今読んでも新鮮な中々の名文である。
トップセールス、プレゼンテーションドキュメントとしてもかなり質が高いものとして評価されている。
この説明会後、
五島は神奈川県北東部を中心とした地域の多摩田園都市開発に次々と着手する。

まず簡単に「強盗慶太」こと五島慶太について紹介しておく。
「西の小林・東の五島」と呼ばれた五島慶太、
西の小林とは「阪急の小林一三」のことである。
西の小林とは対照的な経営手法で、次々と東急をまとめあげ最終的に東京急行電鉄を最大手の私鉄企業に育て上げた。
強引な手口から「強盗慶太」の異名をとったが、鉄道事業の経営手腕は歴史に残る評価を得ている。
東京帝国大学時代、大正期に活躍した外交官で横浜とも関係が深い政治家、加藤高明の息子の家庭教師をしていた時期もある。
大学卒業儀、鉄道官僚となった五島は平凡な仕事に我慢できず、
 役所を辞め「武蔵電鉄」の常務となる。
転機のキッカケは西の小林からもたらされた。
当時、実業家の渋沢栄一らによって設立された「田園都市株式会社」が経営不振に陥り、再建を阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三に依頼された。
ところが小林が多忙のため代わりに五島が推薦されたことが大東急の出発点となる。
東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入していた田園都市株式会社は「荏原電気鉄道」を設立していたが、事業が頓挫した。
五島はその荏原電気鉄道に目をつけた。元鉄道官僚の慧眼だった。
目黒蒲田電鉄と変更し事業を開始するが関東大震災が起る。
震災後も決してあきらめず
1924年(大正13年)に全線開通させた結果、関東大震災で被災した人々が沿線に移住し始めたため一気に沿線が郊外化したのである。
この勢いを受け目黒蒲田電鉄の経営が好転することになる。
ここで得た利益を勤め先であった「武蔵電鉄」の株式に投入、過半数を買収し実質の経営者になる。
この時点で、名前を「武蔵電鉄」から「東京横浜電鉄」と変え、
渋谷〜桜木町間を開通させる。東急の背骨「東横線」の登場である。
昭和恐慌(1930年(昭和5年)〜翌1931年(昭和6 年))のため
業績は悪化するが、五島は誘致計画を立案し長期的な視点で経営を行った。
例えば、東横沿線に学校を誘致し「学園都市」としての付加価値をつける戦略である。
大学を中心に、多くの学校を沿線に誘致するという当時大胆な計画が功を奏する。
東京工業大学を蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山に誘致
日本医科大学武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し誘致。
東京府立高等学校八雲に誘致
慶應義塾大学日吉台の土地を無償提供し誘致。
東京府青山師範学校を世田谷・下馬に誘致
自らも東横商業女学校を設立、
武蔵高等工科学校(現東京都市大学)、
東横学園女子短期大学(現東京都市大学へ統合)を創設する。
さらに五島は、駅に百貨店等の商業機能を直結させる。(渋谷駅開発)
しかし五島は成功ばかりではない。
数多くの失敗も重ねている。
当時の財閥「三井・三菱」を相手に闘いを挑んだが大敗北する。
長年の夢だった“伊豆の開発”も決して成功したとは言えない。
 ※西武とも東西戦争も有名だ。

特に
この「城西南地区開発」構想した時代の10年、決して上手く事業が進んだとは言えない。
しかし、後継者によって実を結んだ「五島慶太の夢」が城西南地区開発構想である。
五島慶太の基本プランはかなり大風呂敷だが、
田園都市構想を現実にした偉大な都市プランナーである。

■城西南地区開発構想での開発予定地域(1953年当時の地名)
地区名:対象地区
宮前:川崎市字馬絹・字梶ヶ谷・字野川・字有馬・字土橋・字宮崎(旧宮前村)
中川:横浜市港北区中川町・南山田町・北山田町・牛久保町(旧中川村)
山内:横浜市港北区元石川町・荏田町(旧山内村)
中里:横浜市港北区寺家町・鉄町・鴨志田町・成合町・上谷本町・下谷本町・西八朔町・北八朔町・市ヶ尾町・黒須田町・大場町・小山町・青砥町(旧中里村)
田奈:横浜市港北区恩田町・奈良町・長津田町(旧田奈村)
新治:横浜市港北区十日市場町・新治町・三保町(旧新治村)
都田:横浜市港北区川和町(旧都田村)
「城西南地区開発」は、まずこれらの地域内に核となる街区を建設する事から始め、これらの北部地域を貫通する交通機関(高速道路または鉄道)と、渋谷から開発対象地域の東部を貫通して、小机、横浜駅西方を経由し湘南方面を連絡する高速道路を建設して、一気に新都市を建設するという大構想(ターンパイク(有料道路)プラン)※であった。
現在の「田園都市線沿線の開発」「港北ニュータウン構想」の出発点がここにある。


No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no207-725_25.html

※ターンパイク(有料道路)プラン
渋谷〜江ノ島間の一般自動車道「東急ターンパイク」(昭和29年免許申請)
小田原〜箱根間の一般自動車道「箱根ターンパイク」(昭和30年免許申請)
藤沢〜小田原間の一般自動車道「湘南ターンパイク」(昭和32年免許申請)
と次々と有料道計画を立てるが
ことごとく「建設省プラン」と競合する。
箱根のみ実現する。「箱根ターンパイク」は日本初のネーミングライツ道路「TOYO TIRES ターンパイク」となっている。(現在は営業譲渡)
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2012年1月18日水曜日

No18 1月18日(水) 三度あることは四度ある

幕末から明治にかけて横浜は東京と肩を並べる芝居の中心地だった。横浜には大小合わせて20以上の劇場があった。大正4年1915年のこの日、横浜で最も歴史のある劇場「羽衣座」が四度目の焼失を受け再建を断念、半世紀の歴史に幕を降ろした。

羽衣座は、文久元年に創業された下田座と佐野松が合併されて羽衣町、厳島神社横にオープンした。前身を含めると最も歴史ある芝居小屋だった。東京・関西の一流役者を多数受けいれ歌舞伎を始め有名人の大芝居を興業した名門劇場である。
(かつてのイシマル電気の裏あたり?)

演目は歌舞伎が中心だったが、新派はもちろん、ボクシングの試合も行われた。
1909年(明治42年)に羽衣座で、英国人のボクシングチャンピオン、スミスと柔道家の昆野睦武(こんのつかのり)の「柔道対ボクシングの国際試合」が行われたという記録が残っている。英国海軍の艦隊がその威容を誇るため横浜に寄港した際に講道館に申し込んだというから面白い。明治のK1だ。昭和の「猪木・アリ戦」??
結果は?
ボクシングなど全く知らなかった昆野睦武だが、激しい戦いの応酬の末、肋骨を2本折られながらも7勝1敗で世界一のスミスを破った。英国と言えば当時ボクシングは国民的スポーツだぜ。
当時、ライバルであった喜楽座と競いながら人気を分けてきたが、
明治32年8月12日に起った関外大火事で全焼する。この関外大火事で、伊勢佐木界隈の多くの劇場が店をたたんだが、羽衣座は再建。
翌年の10月に今度は自分の所から火を出し焼失する。それでもめげないで新築する。
明治36年にこれまた焼失するが再建。
そして大正4年に焼失し 再建を断念する。この頃、芝居小屋の主流は喜楽座に移っていた。

(喜楽座が建っていた場所)
喜楽座成功の特徴は、19世紀末から娯楽の世界に参入した活動写真(映画)を活かし芝居も行ったことだ。また九世団十郎・五世菊五郎・初世左団次等、明治期に人気役者が没した後も一流役者たちののぼりを上げたことであった。
横浜の芝居小屋は、明治32年の関外大火事と大正12年でほとんどを失う。その後現在まで、芝居の中心地としてのエネルギーは失われたままだ。
長くなるが
今年の新春歌舞伎は、歌舞伎座が改築中のため、新橋演舞場で「め組の喧嘩」が上演された。ストーリーは「ふとしたことから、江戸火消し「め組」の鳶と、場所中の相撲取りの喧嘩がはじまり、お互い意地の張り合から ・・ 江戸を沸かせた大喧嘩となった。命知らずの火消と力自慢の力士達の舞台いっぱいの喧嘩の大立ち回りが見せ場・・・。」これは文化二年(1805年)に、実際にあった事件を河竹黙阿弥が芝居にしたもの。
ただの喧嘩が時の三奉行を巻き込んだ(役人の縦割りや揶揄?)大事になるという芝居だ。
歌舞伎の定番、新春にも良くかかるこの演目は、羽衣座とも少なからぬ縁がある。明治34年5月横浜市羽衣座で世話物が得意の二代目尾上菊次さん(昭和45年に亡くなる)が初舞台を踏んだ作品が『め組の喧嘩』だ。
歌舞伎とは「傾く」(かぶく)からきているとか。時代の空気を表現した「歌い舞う芸妓」が皮肉にも「め組の喧嘩」をかけるとは、どこかのマツリゴト師にも見て欲しいものだ。
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2012年1月17日火曜日

No17 1月17日(火) 本日芥川賞発表

(速報)芥川賞、円城塔『道化師の蝶』と田中慎弥『共喰い』の2作が受賞

(17日朝)本日、第146回芥川龍之介文学賞が発表される。前回は該当者無しだった。過去に横浜出身の芥川賞受賞者はざっと調べた所では6名いた。最初は第9回受賞の保土ケ谷出身、半田義之の「鶏騒動」である。
第84回尾辻克彦(赤瀬川原平)の「父が消えた」、第105回荻野アンナの「背負い水」、第116回柳美里の「家族シネマ」が有名な所だが、第67回宮原昭夫の「誰かが触った」と第68回郷静子「れくいえむ」も忘れてはならない。今日は、中でも郷静子について紹介しておく。

芥川賞とは、純文学の新人に与えられる文学賞。大正時代の文学者を代表する芥川龍之介の業績を記念して友人の菊池寛(文藝春秋社創始者)が昭和10年(1935年)に直木賞と共に創設した。
年二回を原則に選考委員の議論で決まるが応募方式ではない点が特徴だ。現在の選考委員は石原慎太郎・小川洋子・川上弘美・黒井千次・島田雅彦・高樹のぶ子・宮本輝・村上龍・山田詠美の各氏。選評は公開される。

郷静子は1929年に横浜で生まれ、鶴見高等女学校(現・鶴見大学附属鶴見女子中学校・高等学校)卒。1972年、戦時中の体験(特に横浜大空襲)を描いた中編『れくいえむ』を『文學界』に発表、同作で第68回芥川賞を受賞した。一冊のノート(日記)を軸に末期の戦争、特に横浜大空襲を生きる軍国少女が体験する終戦を描いている。
文庫化された文春文庫では芥川賞の先輩第67回受賞の宮原昭夫が解説を書いている。この中で、宮原は
「青春にしか許されない、ひたむきな正義感が、ある時代には「立派な軍国少女」たらんと刻苦することに当人を追いやるしか無い、ということの、この無惨さ。」と評している。
9人の文学賞選考委員の中で、中村光夫は
「推しました。素人くさい粗雑さが構成にも文章にも指摘され、リアリズムの観点から見れば、破綻だらけといってよいのですが、結局読ます力を持ち、最後まで読めば、強い感銘をうけます。」「こういう混沌とした強さは、とくに新人に望ましいのですが、近ごろはこれと反対の傾向が幅をきかせています。」「ともかく、欠点がそのまま魅力になったような、この一作は珍重すべきでしょう。」と強く評価した。
一方、舟橋聖一は「二八〇枚の力作だが、芥川賞の銓衡内規では、枚数超過で、寛くみてもスレスレのところにある。長すぎることが、この作品をより素人っぽくしていることは否み難い。」「あくまで戦中の体験と事実に立脚した小説であるのに、主人公節子を殺すことが嘘だと言っては過酷なら、小説作りのための御都合主義だという点が、私がすっきり出来なかった理由である。」と辛辣だ。こういった選考は難しいものだ。
昨今の文学状況では一体どのような評のもとで誰が受賞するのか、愉しみである。
発表されたら少しコメントを加えるかもしれない。
文藝春秋社


第146回芥川龍之介賞候補作品(平成二十三年度下半期)
石田千「きなりの雲 」(群像十月号)
円城塔「道化師の蝶」(群像七月号)
田中慎弥「共喰い」(すばる十月号)
広小路尚祈「まちなか」(文學界八月号)
吉井磨弥「七月のばか 」(文學界十一月号)

第146回直木三十五賞候補作品(平成二十三年度下半期)
伊東潤「城をませた男」(光文社)
歌野昌午「春から夏、やがて冬」(文藝春秋)
恩田陸「夢違」(角川書店)
桜木紫乃「ラブレス」(新潮社)
葉室麟「 蜩ノ記」(祥伝社)
真山仁「コラプティオ」(文藝春秋)
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2012年1月16日月曜日

No16 1月16日(月) 指路教会建つ

開港をキッカケに多くの宣教師が来日しました。
そして教会、学校を軸に布教活動を拡げ多くの文化を伝えました。
特に横浜は開港の地であったこともあり歴史ある教会も多い。
1892年(明治25年)のこの日、指路教会の大会堂が現在の尾上町6丁目85番地に新築されました。
       (写真は大正15年に建替えられたもの)
正式には日本基督教団横浜指路教会といいます。
(しろきょうかい)の名は
旧約聖書にある地名・人名のシロ(Shiloh)に日本語の指路を当てたものです。
この教会を設立する中心人物がジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)です。
ローマ字表記で有名なヘボンといったほうが分かりやすいでしょう。
1859年にアメリカから来日した宣教医J・C・ヘボン博士は、神奈川区の成仏寺を仮住まいにしていました。
日本に来て3年目の秋、近くのアメリカ領事館(本覚寺)から役人が血相を変えて飛び込んできました。寺に重症患者がいる、街道筋で英国人が薩摩に切られたというのです。江戸から京都に帰る島津久光の行列と英国人グループがトラブルを起こし、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した生麦事件が起ったのです。
この時ヘボン医師は他国(イギリス)の事件でしたが幕府役人にも信頼が厚く、応急処置を強く依頼され任に当たります。
生麦事件の後、ヘボンは横浜居留地39番(現在の横浜地方合同庁舎あたり)に医療施設と学校(ヘボン塾)を開設しました。
このヘボン塾が発展して明治学院大学になります。
女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院もヘボン塾内で宣教師メアリー・E・キダーが創設(1870年)した学校です。

学校も軌道に乗り、そろそろ布教の拠点としての教会を設立する機運が高まります。
教会は居留地39番から尾上町、太田町、住吉町と転々としますが、冒頭の通り明治25年(1892年)のこの日、尾上町に赤レンガの教会堂が完成しました。
設計者は、サルダ( Sarda, Paul)フランスの建築家で、海軍省横須賀造船所付属学校の機械学教官として来日します。東京帝国大学教師、三菱の技師を経て横浜で建築家として開業することになります。
山手のゲーテー座、「極東一のすばらしい名建築のひとつ」と母国に報告されたフランス領事官邸、グランドホテル新館などを設計しました。
残念ながらこれらの全ての建物は関東大震災で倒壊してしまいました。
 指路教会は震災後復興計画のもと、大正15年に再建され戦災はうけたものの修復し現在に至っています。
指路教会は横浜市認定歴史的建造物に指定されています。
※毎年クリスマスには 教会前で合唱団が賛美歌を歌うセレモニーがあります。
だれでも参加できます。私も何回か参加したことがあります。
※余談2  指路教会は過去 野口雨情が講演したり、近衛文麿が楽団の指揮をして音楽会を開催したり、結構多目的にも使われていたようです。
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