2012年1月12日木曜日

No12 1月12日(木) 磯子偕楽園

明治大正期の記録には今は無い集会場(会堂、料亭、芝居小屋等)の名が多く出てくる。残念ながら関東大震災以後、激減した。磯子に料亭「偕楽園」があった。ここで1913年(大正2年)のこの日、金子新太郎等の開催する社会主義運動を志す同士の新年会に荒畑寒村、大杉栄らが参加した。
現在のUR磯子駅前三丁目団地
横浜偕楽園は震災と戦災をくぐり抜けながら昭和45年ごろまで現在の磯子駅前の三丁目団地の二号棟付近にあった。大正11年に関東大震災で被災。
横浜市震災誌第二冊(大正15年発行)によると
「崖崩れの最も激しかった所は、料理屋偕楽園の付近であった。同園の裏には七間もの崖が切り立っていたが、大震が起ると同時に、恐ろしい地響き立てて長さ約七十間・幅十数間・坪数約一千坪の断涯(ママ)が崩壊し、偕楽園の一部である三棟の家屋を押し潰した。」
死者16名、崩壊面積が約4,000坪あったためしばらくの間手が付けられなかったとある。1328(嘉暦3)年開創の「金蔵院」に偕楽園の大震災横死者碑が建っている。
昭和33年の磯子駅周辺図
この偕楽園で大杉栄と新年会に参加した荒畑寒村(本名荒畑勝三)は 横浜市南区永楽町の生まれ、港南区野庭で育った。幸徳秋水に影響を強く受け、大正・昭和初期の社会主義運動家として堺利彦、大杉栄、山川均らとともに同時代を生きた中心人物の一人。戦後は全金同盟の委員長に就任するとともに日本社会党の結成に参加し衆議院議員を2期勤めたが、3期目落選以降評論活動に専念した。1981年(昭和56年)3月6日没。
大杉栄は、1919(大正8)年5月4日にもこの偕楽園を会合に使用している。
※ここでは長くなってしまうので触れないが、一時期寒村を支えた管野スガ(かんの すが)という女性の生き様がこれまたすごい。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa050528.html
大正の女性は逞しい!
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