2012年3月3日土曜日

No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る

あのペリー提督が、予定よりも早く再来港し開港を求めたとき、交渉場所が中々決まりませんでした。
ようやく、幕府がまさか開港の場になるとは予想もしていない「横浜村」に決まります。約一ヶ月にわたり、四回の交渉が行われ、嘉永七年(1854年)のこの日、合意に至り日米和親条約が調印されました。
たまくす広場
この交渉場所が、現在の開港資料館「たまくす」のある広場です。隣接して「開港広場」が当時の様子を記念して整備されています。
この日米和親条約は、後に神奈川が開港場所に決まる「修好通商条約」(安政五カ国条約)に対して蔭が薄くなりがちですが、日米関係にとって重要な外交交渉コトハジメでした。
東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーは、(武力行使無しで)開国せよという本国指令はあったものの、二回目の交渉からかなり楽天的に考えていました。錦絵などにも描かれているペリーからのプレゼント、電信機、模型の蒸気機関車、大砲などを交渉中に将軍献上します。しかも調印前に幕府の交渉関係者を招いて「パーティ」も開催します。
この交渉、終始友好的に進められたことが分かります。
ペリー上陸の図をラベルにした横浜ゆかりのワイン

ペリーに対し、日本側全権は林復斎(大学頭)です。日米の交渉は漢文で行われました。朱子学者、復斎は卓越した漢文力と国際情勢の広い知識を買われ、交渉をほとんど任されました。ペリーも林とのやりとりで、直ぐに彼への信頼を確かなものにしたようです。ペリー以前にロシアやオランダと通商交渉はしていましたが、基本的に幕府は開港を望んでいませんでした。ペリーの片思いでした。
開港広場

アジアに列強が押し寄せていることを幕府は認識していましたが、戦争を伴わない交渉で2カ国条約を結んだことは日本外交史の画期的できごとであったといえるでしょう。
一般的に日米和親条約が米国側だけ最恵国待遇を得た「片務性」をもって不平等条約とみなす場合もありますが、日本側が最恵国待遇を辞退した可能性も否定できません。
この一連の重要な外交交渉は、日本側全権代表 林復斎(大学頭)の甥に引き継がれます。総領事タウンゼント・ハリスに絶大な信頼を得た「幕末三俊」の一人、日米修好通商条約に尽力した岩瀬忠震です。

そして、歴史の皮肉というか、岩瀬忠震を安政の大獄で失脚させた時の大老 井伊直弼が、大雪の降る桜田門外で暗殺された日が
安政七年(1860年3月23日)の3月3日でした。
この井伊直弼も、横浜と関係の深い人物です。
井伊直弼ゆかりの彦根ひこにゃん
※時々、桜田門外の変を万延元年とする記述がありますが、間違いです。3月18日万延元年に改元されました。
英文日米和親条約
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