2012年4月2日月曜日

No.93 4月2日 蚕糸貿易の歴史を見つめてきた倉庫

現在、北仲地区にある歴史的建造物「北仲ブリック」は、かつて「帝蚕(ていさん)倉庫」という戦前の日本を支えた蚕糸産業の拠点でした。
1926年(大正15年)の今日は「帝国蚕糸倉庫株式会社」の創立総会が開催された日です。
この会社は単なる倉庫会社ではありません。
大正時代に日本の蚕糸貿易を根底から支えた救済会社「帝国蚕糸倉庫株式会社」の後継組織として設立されたものです。
駐車場になり現存しませんが象徴的な倉庫でした
日本が開港開国以後、近代国家となるためには多くの資金が必要でした。
横浜港を舞台に最も多くの富をこの『国』にもたらしたのが「生糸」と「絹製品」の輸出でしたが、輸入国の事情と蚕業界の怠慢で相場が激変します。
昨日の大金持ちが今日破産というジェットコースター市場の毎日でした。
この危険な市場を安定させるために一人の商人が業界や国に働きかけて蚕糸産業の救済組織を作ります。
彼の名は原富太郎(原三渓)、経済人であると同時に政治、芸術にもリーダーシップを発揮した戦前日本の代表的人物です。
三渓園という公園を作った程度でしかイメージされていませんが経済界に貢献した偉大な人物としてもっと評価させるべきでしょう。
富太郎が残した名園「三渓園」
ことの発端は、第一次世界大戦(1914年〜1918年)でした。
この戦争の影響で、輸出の停滞、糸価の暴落、過剰生糸の保管といった問題が噴出します。原富太郎は緊急措置として、過剰な生糸処理のため「帝国蚕糸株式会社」を1915年(大正4年)に設立、社長に就任します。
「帝国蚕糸」は余剰生糸の買取り保管を行い、暴落を防止し小規模農家によって生産されている業界を救います。効果は1年で現れ、翌年には契機が回復し、生糸輸出が急増します。
そこで目的達成した帝国蚕糸株式会社はすっきり解散します。この手際の良さ、学んで欲しいものです。
ところが大正9年にまた不景気が押し寄せました。銀行が次々と倒産し横浜最大の大生糸売込商であり銀行家でもあった茂木惣兵衛(3代目)は自分の銀行も潰してしまい、また蚕糸産業に救済が求められます。
原富太郎は関係者に諮り、政府、横浜正金銀行の協力を得て第2次帝国蚕糸株式会社を設立(復活)させます。二年に渡って救済ビジネスを行い、1922年(大正11年)に危機を回避しまたまたさっと解散します。
この時に出来た余剰金が300万円にものぼりました。当時の1円は現在の1万円位ですから、300億円もの余剰利益金を二つの条件付きで政府に寄付することにします。
一つが横浜に相場安定のために生糸・絹物専用倉庫を設置する資金として180万円。
二つ目の条件が横浜生糸検査所の拡張費として120万円を原資にして欲しいということでした。現在価値で300億円にもなる資金で「横浜生糸検査所」(現在の第二合同庁舎)と帝蚕倉庫(現在の北仲ブリック他)が建てられます。
北仲ブリック
この300億円は、非常に生きた資金になります。皮肉にも大正12年9月1日に関東大震災が起り、横浜市も壊滅的被害を受け、その復興資金として大変役に立ちます。
時代の危機に対し的確な対策を行った原富太郎は、震災復興会の会長としても私財をなげうって活動します。彼と横浜の多くの人たちの尽力で昭和10年ごろまでに横浜はかなり復興しますが、1945年の横浜大空襲でまた廃墟となってしまいます。

(近代資産としても価値があります)
☆「帝蚕倉庫北仲営業所倉庫」 ・・・横浜市中区北仲通り5-57
竣工:大正15年(1926年)
設計:遠藤於菟(三井物産横浜ビル設計者)
施工:大林組
R.C3階建て、地下1階
                
☆「旧・帝蚕倉庫本社事務所」 ・・・横浜市中区北仲通り5-57
竣工:大正15年(1926年)
設計:遠藤於菟(生糸検査所の設計者)
施工:大林組
鉄筋コンクリート3階建て
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