2012年6月11日月曜日

No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

今日は横浜に因んだスコットランド人のお話をしましょう。
山手の横浜外国人墓地に親子で眠るスコットランド人の墓があります。
ファミリー名はブラック。
父のジョン・レディ・ブラック(John Reddie Black)は1880年(明治13年)6月11日(金)の今日、日本で急死し横浜外国人墓地第9区29に葬られました。
スコットランド国旗
 ブラック親子の話しをする前に、彼ら“スコットランド人気質=スコッツまたはスコッチ”について簡単に紹介しておきましょう。
“スコットランド人気質” はアメリカ人にとって「ケチ」で「頑固」と言われていますが、人一倍正義感が強く、動じない気質の裏返しとも言われています。
アメリカン・ジョークの世界の御約束では、「スコットランド人=ケチ」と決まっています。
でも地元イギリスではちょっと違います。
ちょっと長くなりますが、イギリスで人気のジョークのネタをご紹介しましょう。
このジョークはまず"An Englishman, an Irishman and a Scotsman..."で始まります。
日本風に言えば、ここに大阪人と京都人と神戸人が居てね  と言った風です。

「イングランド人とアイルランド人とスコットランド人がパブに入り、そろってビールを買った。
冷えたビールをグッと飲もうとしたその瞬間、ハエが一匹ずつビールにぽちゃんと落ちた。
(ありえね!)
イングランド人はビールを捨ててしまった。
スコットランド人はビールの中からハエをつまみ出し、気にせずにビールを飲み続けた。
アイルランド人はハエをつまみ出して逆さにぶら下げ、こう叫んだ。
 「吐け! オレのビールを吐きだせ、この野郎!!」
てな具合です。
※イギリスは連合王国で、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国とも呼ばれます。

(ジャーナリズム魂)
前置きが長くなりましたが、スコットランド人ジョン・レディ・ブラックは、オーストラリアに暮らしていましたが母国に帰ろうと考えていました。
たまたま日本が開国し横浜で友人から新聞社経営の手伝いを依頼され日本に向かいます。イギリス人ハンサード(A. W. Hansard.)が創刊した週刊英字紙《The Japan Herald》の共同編集人となります。
時は幕末の1863年(文久3年)のことです。
激動の日本に、スコッツ魂が燃えたのでしょう。
1867年(慶応3年)に日刊英字紙《The Japan Gazette》を自ら創刊します。
開港資料館「もののはじめ考」より
ところが、正義感のあるジャーナリズム魂は、時の政府批判にも及び徹底した圧力を受けます。
外国人のため筆禍を免れることになりますが、日本語新聞「日新真事誌」を発刊し自由民権運などと基の政府批判を擁護したことで当時の日本政府は法律を改正してまで新聞から手を引かせます。
怒ったブラックは日本を去り報道の舞台を上海に移しますがまもなく健康を害し1879年(明治11年)再び日本に戻り療養がてら代表的著作「ヤング・ジャパン」上下 二巻を執筆します。
東洋文庫で全3巻に分けて発刊されています
「この本は、歴史として権威を主張するものではない。この本は、現行の条約が1858に締結されてから経過した21年間に、外国人が多少とも興味を持ち、また少なくとも関係した、この美しい『日出づる国」で起った一番目立った事件を簡単に物語ったものにすぎない。」(まえがき)より冒頭部分


1880年(明治3年)6月11日脳溢血でジョン・レディ・ブラックは亡くなります。

(親子揃ってスコットランド人気質)
ジョン・レディ・ブラックが最初日本に立ち寄る前、滞在先のオーストラリアで生まれた息子がいました。
ヘンリー・ジェイムズ・ブラック、父を追って母子で日本で暮らします。
この国が妙に水に合ったのでしょう、父が上海に移った時、日本で暮らす事を選びます。そして後に石井 貎刺屈(いしい ぶらつく)と改名し日本に帰化することになります。
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫
父親のジョンも息子のヘンリーもすごいと思うのはその語学センスです。
父は日本語に堪能で無ければメディア人として日本語新聞など出版できません。
さらに息子のヘンリー・ジェイムズ・ブラックは、職業に噺家を選びます。
日本初の青い眼の落語家となり、落語だけではなく翻訳家、落語作家、奇術、催眠術の実演と八面六臂の活躍をします。
彼が初代 快楽亭 ブラックと呼ばれる日本芸能史に残る活躍をします。
1903年(明治36年)には、母国英国グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日すると、ブラックは積極的に親しい芸人を誘い落語や浪曲を録音円版に録音し、これが貴重な日本初のレコード録音となります。
四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、初代三遊亭圓遊、三代目柳家小さんなど明治の名人たちの貴重な生の声が残されています。

大正時代に入る頃、落語の世界に不況が訪れます。 
快楽亭 ブラックの人気も凋落して不遇な晩年を過ごし1923年(大正12年)9月19日、満64歳で亡くなりますが父の墓の隣(横浜外国人墓地)に葬られます。

ヘンリーが芸人になる時、家族、知人から猛烈な反対を受けたそうです。
彼は講談からこの世界に入りますが、最初は日本語の練習を兼ねて稽古に励んだそうです。
26歳のときには三遊亭円朝や3代目三遊亭円生の三遊派に入り、「ジャンヌ・ダルク伝」など西洋小説の翻案物の噺をして名をあげるなど外国と日本の文化融合に尽くした人物として今以上に評価されるべき人物であると思います。
イアン・マッカーサー『快楽亭ブラック』(内藤誠・堀内久美子訳)

※二代目 快楽亭 ブラックは関係がありません。
(余談)
幕末明治を調べているともっと調べてみたい謎!にぶちあたります。
活字ビジネスです。新聞出版に活字は欠かせません。簡単に活字を作る事はできません。出版人外国人とともに活字職人も来日していますが彼らの足跡を調べてみたいと思っています。どなたか情報ありましたらお知らせください。
4月17日 活きる鉄の永い物語
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