2012年7月31日火曜日

No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本

1895年(明治28年)7月31日(水)の今日、京都岡崎公園で終了した
第4回内国勧業博覧会で横浜の梶野仁之助が自転車製造で有功賞を受賞しました。

今日は自転車がテーマです。
最近自転車ブームですが、私たちが乗る自転車の構造デザインは、百年以上前にほぼ完成していました。すばらしいことです。
幕末明治の頃、自転車は実用的ではありませんでした。実用性のある三輪自転車がごく一部で使用されていましたが、構造が複雑で高価だったため普及しません。今日のような実用的な交通手段に生まれ変わるのが20世紀の時代に入る頃でした。

最先端技術情報が集まる「横浜」でいち早く自転車に関心を持ち英米の最先端自転車の輸入ビジネスを始めた先駆者達がいました。
1894年(明治27年)創業の貿易商石川商会(後の丸石自転車→現在丸石サイクル)を弁天通に創業した石川 賢治(後に尾上町移転)
1896年(明治29年)創業の根津商店 根津 酒造蔵(相生町)
1903年(明治36年)石川商会から独立し相生町で英国製自転車の輸入を始めた 金輪社の松浦 精一郎(後に尾上町移転)
ゴムタイヤの米国製自転車をいち早く輸入し成功した喬盛館の高木壽次(真砂町)
彼らは、輸入商として画期的な移動手段となった「自転車」を輸入した先見性のあった人物です。

一方、自ら「自転車」を造ろうと試みた日本人も全国に多数いました。その中で、日本最初の自転車企業を創設したのが梶野 甚之助です。

日本の自転車史には必ず登場する梶野は神奈川県津久井の出身で、横浜に来て時計商を営む中で機械に魅了されていきます。ごく一部の遊興用に輸入された自転車を見て、自作を試みます。1879年(明治12年)には蓬萊町に自転車工場をオープン、その後本格的な工場を高島町5丁目に開設します。
梶野の国産自転車は、その後国内で評判になります。

国内工業技術の発表の場となった「内国勧業博覧会」に第三回から最後の五回まで出品し、第四回では有功賞を受賞します。
1891年(明治24年)には初の海外、中国に輸出します。
1897年(明治30年)に大日本自転車製造株式会社を設立、日本最初の自転車製造企業が誕生します。
最盛期の明治40年頃には職人40名で梶野ブランド「金日本号」「銀日本号」を販売し海外にも支店を持つまでに発展しました。
その後、宮田工業(本社茅ヶ崎)を含め現在の日本を代表する自転車メーカーが誕生します。(自転車部門は㈱ミヤタサイクルに)

(余談)
日本で自転車製造に着手した人物は福島県の鈴木三元という人物で、1876年(明治9年)一人乗り三輪車「大河」を開発しました。
横浜の石川商会は1910年(明治43年)英国製自転車トライアンフの不正コピー警告の広告を掲載したことで話題に。

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no179627.html

2012年7月30日月曜日

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

1931年(昭和6年)の今日7月30日(木)神奈川県史跡名勝天然記念物が県内の歴史資産に対し指定されました。関東大震災からようやく復興の兆しが見え始めていましたが、一方で満州事変が起った年でもあり、国内外に時代のうねりが押し寄せている年でもありました。神奈川県史跡名勝天然記念物として指定された主な内容は、横浜市では三ツ沢貝塚、小机城址、アメリカ使節応接所跡生麦事件旧跡、汽車開設当時の横浜駅跡、藍謝堂跡等でした。これらの指定史跡の中で「三ツ沢貝塚」に注目しました。
※他の小机城址、アメリカ使節応接所跡生麦事件旧跡、汽車開設当時の横浜駅跡、藍謝堂跡棟は、別の機会に紹介できると思います。

「三ツ沢貝塚」
三ツ沢の丘にある神奈川県立横浜翠嵐高等学校脇に横浜市地域史跡「三ツ沢貝塚」を記した看板が建っています。1905年(明治38年)、このあたりで貝塚の発掘調査が行われ、多くの貝と同時に土器、住居跡、人骨が出土しました。ここには発掘者として一人のスコットランド人医師の学究魂が宿っています。

横浜の古代、海岸線はかなり内陸に入り込んでいたことがわかります。


大森貝塚を横浜から汽車に乗っていたモースが発見したことは有名ですが、この「三ツ沢貝塚」は、スコットランド人の医師Neil Gordon Munro(ニール・ゴードン・マンロー)が医師業のかたわら、人類学研究の一貫としてこの場所に注目し発掘調査を行いました。

マンローは、たまたまインド航路の船医として来日し、日本の風土に魅せられ横浜山手にあったゼネラルホスピタル(山手病院)で医師として働くことになります。
医者であると同時に、考古学にも深い造詣のあったマンローは日本文化、北方の少数民俗アイヌ文化に関心を寄せていきます。

三ツ沢を発掘した1905年(明治38年)日本に帰化、帰化日本名「満郎」として1933年北海道に渡り、平取町二風谷(にぶたに)にマンロー邸を建てて医療活動を行いながらアイヌ文化を研究し保存に尽力します。
アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残したことは貴重な資料となっています。

(執念のアイヌのルーツ探し)
スコッツ魂“頑固さ”が光るニール・ゴードン・マンローはアイヌ民族の北方移動説を証明するために、本土の同時代遺蹟(貝塚)の発掘を考えます。この「三ツ沢貝塚」発掘では、彼の仮説の一部を補完する土器や人骨が見つかり、当時の人類学、考古学会に衝撃を与えました。

29歳で日本に来た彼は1942年(昭和17年)4月11日に78歳でその生涯を終え軽井沢町軽井沢会外国人墓地に眠っています。
Neil Gordon Munro (1863〜1942) was a Scottish physician and anthropologist. Resident in Japan for almost fifty years, he was notable as one of the first Westerners to study the Ainu people of Hokkaido. Educated in Edinburgh, he traveled in India and Japan before settling in Yokohama as director of the General Hospital in 1893. From 1930 until his death he lived among the Ainu in Nibutani village in Hokkaido. Film footage he took of the local people survives. Between 1909 and 1914 he sent more than 2,000 objects to the Royal Scottish Museum in Edinburgh.

※「三ツ沢貝塚」は、神奈川区沢渡(さわたり)・三ツ沢東町・三ツ沢南町にかけての台地に分布する縄文時代後期から弥生時代前期にかけての貝塚である。標高30mのこの台地は、東西に細長く、南北を谷に挟まれているが、縄文海進の頃にはこの台地の直ぐそばまで海が迫っていたとされる。
 この貝塚は、1905年に横浜居留のイギリス人医師ニール・ゴードン・マンローにより発掘調査が行われ、貝塚の他、竪穴式住居跡や墓地などを含む大きな集落があったことが判明した。
 集落の規模は、県立翠嵐高校あたりから松ヶ丘にかけての東西約600メートル、南北は三ツ沢東町の北斜面から沢渡の南斜面にかけての、広いところで300メートルを超えるものとされている。



 貝塚からは、土器・土器片・土錘(土のおもり)・土偶(土で人を形どったもの)・打製石斧・磨製石斧・石棒・石皿・石鏃(やじり)・骨角器(ヤス・つり針)などの他、多種類の貝や魚・鳥類・シカ・イノシシなどの骨も発見された。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/mb06/06img/MAIY_10s.pdf#search='三ツ沢貝塚'

No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no173621.html

No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no163611.html
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現在は下記のサイトに移行中です。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/

2012年7月29日日曜日

No.211 7月29日 (日)株式会社横浜国際平和会議場

1990年代、首都圏にコンベンション競争時代が到来します。
国際会議等に対応するコンベンション施設が続々完成します。
東京、千葉
そして神奈川では…
1991年(平成3年)7月29日の今日、
横浜みなとみらいに通称“パシフィコ横浜”
「会議センター」と「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が完成しました。
運営会社の正式名称は「株式会社横浜国際平和会議場」です。

観覧車からパシフィコ
(コンベンション獲得競争時代)
国際見本市というと現在ではかなり“古くさい”という感じがしますが、1980年代まで、首都圏のコンベンション施設といえば「はるみ」でした。
当時、代表的なイベントといえば「東京モーターショー」。
「東京国際見本市会場」(東京都中央区)で第6回から第27回まで開催され独占状態でしたが、第27回1987年(昭和62年)10月29日〜11月9日から幕張メッセ(千葉市美浜区)に会場を“奪われます”。
※2012年はビッグサイトになりました。

コンベンション施設 競争の時代が始まります。
1989年(平成元年)10月、千葉県美浜区に「幕張メッセ」が開業。
1991年(平成3年)7月、横浜市西区みなとみらいに「横浜国際平和会議場」(パシフィコ横浜)10月に展示ホールが竣工。
http://www.pacifico.co.jp/
展示ホール内
展示ホール海側 穴場ですよ!


1994年(平成6年)4月、パシフィコに「国立大ホール」が完成。
1996年4月(平成8年)、東京都江東区有明に「東京国際展示場」(ビッグサイト)
1997年(平成9年)1月、旧東京都庁舎の跡地に「東京国際フォーラム」が開場します。

(苦戦を乗り越えて)
横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)は、1991年(平成3年)に開業以来、幕張メッセと有明ビッグサイトと顧客獲得競争を繰り広げてきましたが開業当初はかなり苦戦します。
バブル崩壊という時代背景もありましたが、幕張、有明との熾烈な獲得競争に
“おとなしい?”パシフィコは後塵を拝してきました。
2000年に入り、2002 FIFAワールドカップのメインプレスセンターとなったあたりからバランスの取れたコンベンション施設として評価を得るようになります。
国際会議対応能力は日本一の水準、ホール、展示場、ホテルなどがコンパクトにまとまっている点で、他の施設との差別化につながっています。
多角的なアクセスが可能 そこが魅力
アフリカ開発会議(2008年)アジア太平洋経済協力首脳会議(APEC)(2010年)といった大型国際会議にも対応能力を発揮しました。
多くのプログラムが東京、千葉との獲得競争中心でしたが、
2010年、パシフィコで第一回が開催されたCP+(カメラ&フォトイメージングショー)はリーマンショック後の“横浜発”大型見本市として注目されました。

(アフターコンベンション)
「パシフィコ横浜」の最大の強みは立地性とアフターコンベンションでしょう。
最寄り駅「みなとみらい駅」から五分以内、海からのアプローチ「シーバス」はかつての晴海を思い起こします。
アフターコンベンションでは
みなとみらいはもちろん、野毛界隈、
中華街、元町そして横浜港を配し魅力アップに繋がっています。

(地域貢献)
「パシフィコ横浜」は、地域貢献にも力を入れています。
みなとみらいエリアの住民交流への支援、社会貢献等を積極的に実施し一定の効果を得ています。

(余談)
311の時には、臨時帰宅難民避難所として機能し、多くの帰宅難民が宿泊しました。
県市の職員もかなり利用したそうです。

2012年7月28日土曜日

No.210 7月28日 (土) 小さな巨人

2011年(平成23年)7月28日(木)〜8月2日(火)の6日間国際的な切手の祭典「日本国際切手展PHILANIPPON2011」が横浜で初めて開催されました。
郵便趣味を略して郵趣と言います。日本国内では、かつて鉄道系と双璧の人気カテゴリーでしたが、近年電子化と郵政事業の合理化で郵趣人口は減少しているのが現状です。
しかし
国際的にはいまだ多くのファンを持つ歴史ある趣味の世界です。国際切手展PHILAは、国際郵趣連盟(FIP)の加盟国(87の国及び地域)の切手を海外に普及するため、持ち回りで開催している国際展です。
日本では、1971年、1981年、1991年、2001年と10年おきに東京で開催、今回初めて横浜開催が実現しました。
今回のテーマは「小さな切手が世界をつなぐ」パシフィコ横浜展示場を開場にして6日間行われました。






切手コレクションの展示、世界の切手商マーケット、記念イベント、横浜観光コーナー、臨時郵便局(記念切手の発売、風景印、特別消印)等々。

一般入場者の最大イベントは、54カ国の郵政事業者を「切手パスポート」を持って(入場券に対し1冊)各国の切手を購入しながら特別消印を集めるスタンプラリーです。

一国あたり100円(確か200円もあった)、全て回ると5400円はかかってしまうがつい夢中にさせてしまいます。
今回の目玉はムーミン切手とスタンプ、長い行列ができていました。
開場には特別ポストが設置、指定日の風景印が押印されるサービス。ここで暑中見舞いをまとめて出しました。

(外国郵便といえば)
横浜は幕末から外国商館が各国領事館より一足早く進出し、国際交易を始めた街です。
交易には通信が欠かせません。1860年代すでに電信が実用化されていましたが、安くて確実な郵便による通信は各国が個々に居留地で行っていました。
1871年(明治4年)の3月1日、日本国内に逓信制度が導入されましたが、海外郵便は各国まかせでした。
1875年(明治8年)1月にアメリカの郵便を日本が取り扱うようになり、順次1879年(明治12年)にイギリス郵便局、翌年の1880年(明治13年)にはフランス郵便局が廃止され、外国郵便は完全に日本で取り扱うようになりました。
1875年(明治8年)に外国郵便を日本で初めて開始したところが現在の「横浜港郵便局」です。
ここには「外国郵便創業の局」のプレートが埋め込まれています。

(切手の力)
郵便の持つ趣味のコンテンツ力はいまだ強力なものがありますが現在の日本郵政はまだまだ工夫が足りません。(余地がいっぱいあります)
“お役所仕事?”だった郵便事業にファン重視、地域コンテンツとの連動性に長ける要素を併せればさらに重層的なカテゴリーに成長することは間違いありません。
歴史ある郵趣組織も大切ですが、ぜひ新しい視点で郵趣コンテンツを地域コンテンツと連動させるダイナミックな改革をして欲しいと願う次第です。
郵趣の王様消印コレクション
この本でつい横浜市内の郵便局が気になり始めました

切手は小さなメッセンジャですが、巨人でもあることを実感しました。

2012年7月27日金曜日

No.209 7月27日 (金)浜で起り、浜で終結

横浜が開港の正式調印が安政6年6月2日(1859年)行われ、
外国人居留地が誕生した直後、事件は起りました。
7月27日(1859年8月25日)横浜居留地の波止場近くで“初めて”外国人が日本人に襲撃され、二人が死亡したのです。
このあたり?
開国はしましたが、日本は“安政の大獄”で一種の戒厳令による状態でした。
国内は一発触発、徳川政権は内外部に不満分子を多々抱えていましたが、列強各国も足並みは揃っていません。
まず英仏が江戸に乗り込み外交拠点を求めます。
米国も英仏の動向に注視しながら独自の外交を開始します。

イギリスはアジア外交のベテラン、ラザフォード・オールコックを日本担当にします。
安政6年6月7日(1859年7月6日)に、江戸高輪東禅寺にイギリス総領事館を開き、準備を始めます。
アメリカは既にタウンゼント・ハリスがヘンリー・ヒュースケンとともに
安政3年7月12日(1856年8月21日)に日本へ到着し江戸元麻布善福寺に公使館を開きます。
フランスは、少し遅れて
安政6年8月10日(1859年9月6日)にギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールが初代の在日本フランス領事として赴任し済海寺(港区三田)に領事館を開きます。

一方
ロシアは早くから日本への開国要求を始めていましたが、決定打に欠けていました。
ペリーが開港を突きつけたことにより、ロシア政府はベラルーシ生まれのゴシケーヴィチを
安政5年9月18日(1858年10月24日)シベリア経由で箱館(現函館市)に総領事として着任させます。
他国の領事は横浜・江戸で活動しましたがロシアは函館を中心に外交活動を行います。
このスタンスが後の日露関係に大きく影響していきます。

前置きが長くなりましたが、
安政6年7月27日(1859年8月25日)ロシア海軍の海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフは1人のコックを連れて食料品を買うために上陸します。
横浜町3丁目青物屋徳三郎方で買物を済ませ、店を出たところを3人は突然襲撃されます。
記録には居留地の繁華街はまだ多くの店が開いていたと書かれていますから夕方だったのでしょう、2人は死亡、まかないコックは重傷を負います。
(武士らしい)犯人は堂々と逃走してしまいます。
これが、開港後(日本史上)初めて外国人に殺傷者がでた重大な外交事件でした。

(これ以降 短めに)
アジア外交のベテラン、オールコックは直ちに幕府に抗議し賠償を求めよ!とロシアに直言します。
ロシアの外交姿勢は決まらず、結局具体的行動に出ません。
結局賠償を求めず、丁重な埋葬と“永久管理”を要求し幕府も了承します。
幕府側もロシア側も事態の大きさに気がつかず、解決を現場任せにします。
この態度が英米仏の外交団に不信感を起こさせると同時に、外国勢力排除勢力「攘夷派」を勢いづけさせます。
ここから、生まれる結果は“攘夷派による「血のテロル」”でした。
 ■安政6年10月11日(1859年11月5日)
  フランス領事館従僕殺害事件
 ■安政7年1月7日(1860年1月29日)
  イギリス公使館日本人通訳殺害事件
 ■安政7年1月8日(1860年1月30日)
  フランス公使館放火事件
 ■安政7年2月5日(1860年2月26日)
  オランダ船長殺害事件
 ■文久元年5月28日(1861年7月5日)
  第一次東禅寺事件
ワーグマン画による第一次東禅寺事件
まだまだ続きます。数々の殺傷事件が起る中、
 文久2年8月21日 (1862年9月14日)
  有名な神奈川「生麦事件」が起ります。
徳川幕府は、各藩の攘夷派を抑えられず、外交関係は最悪になり、
倒幕
大政奉還
そして明治維新を迎えることになります。

(意外な結末)
幕末に起った数々の大事件の一つに「水戸天狗党の乱」があります。
元治元年(1864年)に水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)が挙兵し一種の内乱になります。62人の挙兵から始まった尊皇攘夷派は数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がります。
※小説にもなり茨城では研究会が幾つも続いています。
しかし、水戸藩も混乱しリーダーシップを欠く天狗党は挙兵の名目を半ば見失い、決起は水戸藩の内部抗争の色彩を濃くします。
幕府は追討令を出し天狗党は逃走集団に変貌します。
逃走ルートは
那珂港→大宮→大沢→大子(元治元年11月1日)→川原→越堀→高久→矢板→小林→鹿沼→大柿→葛生→梁田→太田→本庄→吉井→下仁田→本宿→平賀→望月→和田→下諏訪→松島→上穂→片桐→駒場→清内路→馬篭→大井→御嵩→鵜沼→天王→損斐→日当→長嶺→大川原→秩父→中島→法慶寺→薮田-今庄→新保(12月11日)→敦賀(降伏)
という長距離、時間は一ヶ月に及びます。
最終的には天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除されます。
その中に、水戸出身の小林幸八という人物がいました。
ことの天狗党の乱に関する顛末を取り調べ中、
小林幸八は過去の事件にまで言及します。
ロシアの異人を居留地の波止場近くで襲撃したことを自供します。
幕府は彼を横浜に送致し死刑、最初の「異人斬り」は意外な結末を迎えることになります。
亡くなったロシア軍人二人は山手外国人墓地(ロシア22区19)に、
犯人の小林幸八は梟首(きょうしゅ)刑になりますが
明治になってから靖国神社に祀られています。

No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no16169.html

2012年7月25日水曜日

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

No.19 1月19日で紹介した五島慶太の夢の補遺版です。
1956(昭和31年)7月25日、城南地区開発マスタープランである
 「多摩川西南新都市計画」が決定し発表されました。
五島慶太「私の履歴書」より
1956年(昭和31年)は東急電鉄にとっても、
五島慶太にとっても重要なターニングポイントとなります。
この年から3年後の1959年(昭和34年)に亡くなった五島慶太にとってこの1956年は、最後の夢実現への命を削った一年だったのかもしれません。
横浜市の都市形成を考える上で、
五島慶太の「田園都市構想」は欠かせない計画で現在も東急Gが継続しているプランです。
1953年に五島が発表した「城西南地区開発趣意書」
http://ja.wikisource.org/wiki/城西南地区開発趣意書
については簡単にこのブログ開始直後に紹介しています。
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/119.html
ご参照ください。

この「城西南地区開発趣意書」は各方面に衝撃を与えました。
民間発の交通インフラと都市計画を一括して推進する方法は昭和初期から(実験的に)推進されてきましたが、五島のプランは規模が違いました。
川崎から横浜東部を
「8つのブロック」に区分し開発していくものでした。
交通インフラの中心は戦前の基本方式だった鉄道から自動車を基幹にした「高速道路計画」(ターンパイク構想)でした。
ところが、建設省と構想が重なる部分がかなり生じ修正を余儀なくされます。
そこで、
8つのブロック計画を4つに集約し、
交通インフラを国道246号線、
鉄道を「田園都市線」に軌道修正したものが
「多摩川西南新都市計画」です。

(4つのブロック)
■第1ブロック
川崎市土橋・馬絹・宮崎・有馬・梶ヶ谷・野川・菅生・上作延・長尾・末長・新作・千年
第2ブロック
横浜市港北区元石川町・荏田町など
第3ブロック
横浜市港北区東方町・池辺町・佐江戸町など
第4ブロック
横浜市港北区恩田町・長津田町など

その後、1965年(昭和40年)に東京都が「多摩ニュータウン」計画を決定し「多摩」名は有名になりますが
1966年(昭和41年)完成の田園都市線「たまプラーザ」駅名には、五島の夢がこめられた(執念?)の駅名といえるでしょう。(息子の五島昇命名)

(ここから大胆な私見となります)
ところが、東急の田園都市計画は、大きなハードルが立ちはだかります。
1963年(昭和38年)に横浜市長となった飛鳥田一雄(市長時代1963年〜1978年)は、東急の田園都市計画に消極的態度を示します。
この消極策が横浜北部と横浜南部を都市構造として分断する結果を招きます。
磯子出身が影響したかどうかわかりませんが、飛鳥田時代の横浜北部は置き去りにされていたといっても過言ではないでしょう。
都市計画のコンサルに西武の堤義明が入っていたことも関係があるかもしれません。
いわゆる「7つの丘」が地勢的に
横浜を南北に分断する結果となります。
その後、青葉区出身の市長が二代続くことで北部と南部の連結、さらには東西のアクセス改善も進みますが、いまだ多くの課題が山積しています。

高齢化、空室率10%超えの横浜市の街づくり、再生をどうするのか?
五島なら何と言うか?聞いてみたいところです。
私の履歴書第一巻 最初の登場が「五島慶太」
1956(昭和31年)「多摩川西南新都市計画」が発表された年、日経新聞で新シリーズ「私の履歴書」が始まります。その第一回が東急会長の五島慶太でした。
最後に、
「若い女と馬鹿話をしていると、仕事の話や世間の苦労からまぬかれて頭の中が「空」になってくる。そうすると夜熟睡ができるので、またあすへの活力がでてくるのである。これが私の健康法である。三昧ということが、女でも、碁、将棋、スポーツなんでもよい。三昧になるーーすなわち「空」になるということが必要である。」
(私の履歴書 第一巻第一部)

今日のおすすめブログ
■私個人は「戦後の曲がり角1980年代の日本」をライフワークに資料を集め、読み込んでいますが横浜は(周囲も観ず働いていたので?)空白なんです。
このサイトは 記録としても記憶としても大切な資料です。
制作者に敬意を表します。
http://hama80s.exblog.jp/

No.208 7月26日 (木)ザ・みなとの劇場

1874年(明治7年)7月26日(土)の今日、
住吉町1丁目9番地に完成した最新設備を誇る“港座(湊座)”劇場の杮落し公演が行われました。
煙突のある建物の隣が港座。煙突はガス会社から電気会社に、現在は東電の変電所
横浜公園の隣。現在は雑居ビルが建っています。
かつて芝居小屋は街の賑わいのシンボルでした。
人・モノ・情報、そしてお金が集まった横浜界隈は日本有数の賑わい空間でした。
明治25年赤い場所が大型の施設 縦にベルト上に建っています
その中心地が関内、関外エリアです。
横浜界隈には下田座、羽衣座、喜楽座、蔦座、賑座、相生座他 大小合わせて20以上の劇場がありました。
その多くが伊勢佐木界隈に集中していましたが、これに対しビジネス街のど真ん中に最新の設備を誇る劇場を建てたのが“豪商”高島嘉右衛門です。

ガス会社、鉄道、学校創設など、日本初と日本一が大好きな高島嘉右衛門が、一世一代の投資をして彼我公園脇に日本で初めて近代技術“ガス灯”を装備した劇場「港座」を建てました。

ガス灯は、街路を照らすだけではなく劇場のような集客空間の夜間ビジネスの最新モデルとなりました。
劇場「港座」は明治33年にその幕を閉じますが、往時を懐かしむ記事がでたように横浜経済のピークを象徴するものでした。
横浜の芝居に関する貴重な資料です
「我市の盛時に於て故団十郎は三度来りて我港に妙技を振えり、高島屋血達磨一世一代の大入りは東京に見ずして却って我市港座に之を見たりき、娯楽場の盛衰は実に一市の活力に伴うもの、今日人口往時に幾倍し而も一劇場の見る可き無し」(横浜貿易新報 1916年1月号)

(超一流尽し)
とにかく最新、日本一にこだわった高島嘉右衛門は、芝居小屋「港座」の杮落しに当世一流のメンバーを集め興行を行いました。
公演は“大芝翫”と呼ばれた名優4代目が率いる成駒屋「中村翫雀一座」を招聘します。当時この一座に公演をさせるということは実に大変なことで、全国の芝居ファンを仰天させました。
四代目中村翫雀
座主高島の“わがまま”はこれだけではなく、「中村翫雀一座」にオリジナル作品「近世開港魁」7幕15場の上演までさせてしまいます。
この芝居の作家には「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」で不動の人気戯作者となった仮名垣魯文、狂言作者の三代目 瀬川如皐を起用し、杮落しは大盛況でした。

観光の魅力は“名所旧跡”もありますが、街にライブな芝居見物ついでに観光というコンテンツも重要要素でしょう。

(余談)
“大芝翫”と呼ばれた名優4代目「中村翫雀」の系譜が「中村鴈治郎」「坂田藤十郎」と続く成駒屋。現在の五代目「中村翫雀」は「坂田藤十郎」と「扇千景」の子で 48年ぶりに上方歌舞伎の名跡を継ぎます。
弟が「三代目扇雀」で1995年(平成七年)10月に五代目中村翫雀・三代目中村扇雀のダブル襲名披露を行いました。(全くの余談でした)


No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/12.html

No18 1月18日(水) 三度あることは四度ある
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2012年7月24日火曜日

No.206 7月24日 (火)新港埠頭にヘンリー航海王子

昨日に続き新港埠頭が舞台です。
日本ポルトガル修好通商条約150周を記念して、ポルトガル海軍の帆船サグレス号(1,940トン)が2010年(平成22年)7月24日(土)の今日、横浜港新港埠頭に初入港し一般公開されました。
汽船の時代ですが、海に帆船は似合います。
近年多くの帆船が横浜港を訪れていますがポルトガル帆船の横浜寄港は初めてです。
「N.R.P Sagres」
 ポルトガル海軍所有の1961年(昭和36年)に就役した大型練習帆船で、過去2回日本に寄港経験があります。
総員139名、帆に描かれたヘンリー航海王子ゆかりのキリスト騎士団の「十字紋章」がひときわ印象的です。
船名のサグレスとは、ポルトガル南端に位置するアルガルベ地方ヴィラ・ド・ビスポに属する町の名で、大航海時代の原点となったヘンリー航海王子が航海学校を設立したサグレス岬に由来しています。
N.R.P SagresのN.R.Pは「ポルトガル共和国海軍」の略です。

日本とポルトガルの歴史といえば16世紀、日本を訪れたフランシスコ・ザビエル(スペイン人ですがポルトガル王ジョアン3世の依頼でアジアに)に始まり、鹿児島県(種子島)や大阪(堺市)など西日本の長い交流が続いています。
江戸時代は他国と同様に国交も無く幕末の開国後の1860年に日葡和親条約、日葡修好通商条約が調印され二国の交流が再開します。
その後、細く長い交流が継続し、
修好通商条約150周記念を記念して2010年の今日、横浜に寄港したものです。

ポルトガルの帆船サグレス号が横浜港に初入港、一般公開も
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1007240016/
帆船サグレス(SAGRES)が横浜に初入港/神奈川新聞(カナロコ)
http://www.youtube.com/watch?v=lP8IWnafAf4
ポルトガル海軍練習帆船「サグレス」横浜入港
http://www.youtube.com/watch?v=AD-1pynL5F4

※(神奈川県では)逗子市がナザレ市と2004年7月国際友好都市締結
この「帆船サグレス号が横浜港に初入港」をキッカケにポルトガルと横浜の関係を探ってみましたが、中々見つかりません。

ポルトガルは隣国スペインと同様にサッカー王国です。
サッカー繋がりで調べてみました。
ありました。ちょっと意外な関係が。
サッカーJリーグに過去外国人選手は何人くらい活躍したと思いますか?
ざくっと調べたところ過去現在含め約1,400人全国のチームで活躍しています。
その中で、ポルトガル出身のJリーガーといえば?
たった3人しかいません。
意外でした。
ポルトガルから独立したサッカー大国ブラジルはといえば、なんと800人を超える選手が日本で活躍しています。
外国人Jリーガーの過半数がブラジルサッカー出身だったのです。
ポルトガル出身のJリーガーは3選手で
20世紀の偉大なサッカー選手100人の一人で“欧州のマラドーナ”と言われたポルトガル代表のフットレ選手と若きフェレイラ選手の2人が
1998年リーグで横浜フリューゲルスに所属していました。
もう一人はミゲル選手でサンフレッチェ広島(2000年)に所属していました。

1998年リーグといえば、横浜フリューゲルス最後の年、特別な一年でした。
残念ながら天皇杯優勝メンバーとして残ることはありませんでしたが、横浜フリューゲルスに欠かせないメンバーであったことは間違いありません。
欧州のマラドーナ、フットレ選手は最後の現役時代を横浜で過ごし16試合3得点の存在感を示しました。

No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/1.html

ポルトガル共和国
Portuguese Republic
面積:92,207.4 平方キロメートル(日本の約4分の1)
人口:1,055 万 5,853 人(2011 年 6 月 30 日現在)

2012年7月23日月曜日

No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港

1872年(明治5年)に初めて横浜と品川間の鉄道が開通し2012年で140周年を迎えました。開通から半世紀のちの1920年(大正9年)7月23日の今日、
東京駅と「横浜港駅」間が開通しました。
“横浜港〜サンフランシスコ間航路”に接続するための臨港線が開通したことはあまり知られていません。
今日は現在赤レンガパークに保全されている
「横浜港駅」を中心に横浜鉄道史の断片をご紹介します。
横浜港駅(2002)
(新しい埠頭の誕生)
明治の中頃、幕末の開港以来横浜港には西波止場・東波止場がありましたが、船舶の大型化に対応できず、沖に停泊し艀(はしけ)と使って荷物の運搬を行う状態が続いていました。
特に大型貨客船の接岸は、横浜港の重要な課題でした。
そこで新しい埠頭「新港埠頭」を増設する工事が1899年(明治32年)に始まり1914年(大正3年)に完成します。
新港埠頭
「新港埠頭」は大岡川の河口沖合に生まれた人工島です。
現在の地図を見てもこの島を幾つかの橋が結んでいることが良くわかります。
「新港埠頭」は大きく二本の突堤に11隻の船を横付けできる岸壁を持つものでした。
そこに日本最大の物流拠点が誕生しました。

(日本最大の物流拠点)
東京港が本格的な国際港として稼働する戦後(開港は1941年(昭和16年))まで、
横浜は首都圏の唯一の国際物流拠点でした。
「新港埠頭」誕生と同時に、Yokohama Red Brick Warehouse「新港埠頭保税倉庫」(赤レンガ倉庫)が誕生します。
岸壁と保税倉庫に加え陸路の物流に鉄道が整備されました。
そこで「新港埠頭」の増設と同時に、臨港鉄道も併せて整備されました。
1920年(大正9年)7月20日に「横浜港駅」が開設し
23日に「東京駅と横浜港駅」間鉄道が開通することになります。
特に日米航路の出発地だった横浜港駅は、
物流だけではなく「旅客者」が乗降する駅でもありました。
日本郵船の日米航路定期船に合わせ乗船客や見送りの人々がこの車両を利用しました。
終点の横浜港駅を降り、その足で外国航路に乗船する。
ロマンチックな光景を想像することができます。
東京と国際港を結ぶ臨港鉄道は飛行機にその首位の座を渡すまで、
成田空港駅のように“港”に欠かせないものでした。
この臨港鉄道
1960年(昭和35年)8月27日、氷川丸出航に合わせて運行された旅客車両を持って運行を終了します。その後、桜木町から横浜港区間は貨物路線としても役割を終え、廃線となりました。
1997年(平成9年)路線の一部を整備し「汽車道」として一般に公開され現在に至っています。
汽車道
「横浜港駅」もこの歴史を伝える近代史資産として赤レンガパークに残されています。
かつて臨港線だった貨物線は現在も桜木町から一部地下化し京浜地区の物流を担っていますが、さらに有効活用を願う声も大きくなっています。

(横浜は鉄道の原点都市)
今年7月10日に「原鉄道模型博物館」もオープンしたこともあります。横浜の魅力コンテンツに「鉄道」は欠かせません。
横浜駅は一つの駅に乗り入れている鉄道事業者数日本最多の駅です。
2001年に開催された現代アート展「第一回横浜トリエンナーレ」では鉄道をモチーフにした作品も登場しました。


オノヨーコ「貨物車2001」
汽車道にはナウイン駅をモチーフにした「横浜サーラ」
当時の解像度が低くてすみません
アーティストが開場の歴史的文脈を感じ取った証といえるでしょう。

東急東横線の桜木町〜横浜間の架橋の活用も含め、
鉄道の150周年(2022年)までに横浜の魅力づくりに加えて欲しいコンテンツです。

(新港埠頭関連ブログ)


No.241 8月28日(火)駅を降りたら、国際港 復活(その2)
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no241828.html


3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/32.html


No.335 11月30日(金)午後1時46分41秒
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/11/no33511304641.html
新港埠頭に停泊していたドイツ船ウッカーマルク号が突然爆発

No.103 4月12日 「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/412.html

No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/11/no307112.html

No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no266-922.html
1888年(明治21年)9月22日(土)の今日、横浜区相生町68番地に横浜煉化製造会社が創業
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現在は下記「横濱界隈通信」に移動しました。



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