2012年7月5日木曜日

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

1904年(明治37年)7月5日(火)の今日、
大岡川の吉浜橋と花園橋が遊泳禁止で話題となりました。
というか普通に泳いでいたんですね。
吉浜橋はまだできていません。
(今日は川ネタです)
大岡川の吉浜橋と花園橋あたりを中心に開港場の誕生あたりを軽く探ってみました。
題して「目で見る運河」
上記古地図は1881年(明治14年)頃です。
現在のマップで探ってみます。

首都高速の「横浜公園」出口近辺がまさにこのあたりです。

1893年(明治25年)ごろの吉浜橋近辺です。
このあたりは 既に横浜製鉄所ができていましたから、“泳ぐ”には当時でも無理があったんじゃないかと推察できます。
でも泳ぐ人がいたんですね。
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=509

(大岡川のめぐみ)
開港場の“横浜”は、埋立ての街です。
横浜村は大岡川が流れ込んでできた独特の砂州があり、深い入江となっていました。
開港前の横浜
大岡川上流から運ばれる土砂は、
横浜村を含めた周辺の村に囲まれた“湿地帯”状態で、
村民は製塩と漁業の場として利用していました。
ここに目をつけたのが江戸の材木商、吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)で、
1656年(明暦2年)幕府に許可を得て周辺の村民の賛意もあり埋立事業を起こします。
これが現在の横浜の基礎となった吉田新田の誕生です。
埋立て事業は人海戦術ですから大変な労力と危険(犠牲)を要しました。
完成までに約12年もかかります。
財力にも驚きますが、埋め立て事業に参加した村民の努力にも敬意を表します。
この埋め立て事業の地鎮と無病息災を願うために
「日枝神社」と
「常清寺」とが創建され現在もこのエリアの鎮守様となっています。

この吉田新田の区割りから現在の南区・中区の街並が形成されます。
埋立てにあたって、大岡川は現在の南大田近辺で「大岡川本流」と元町方向に流れる「中村川」に分岐させ、
真ん中を運河(掘割)で水を逃がしました。
この中村川、今日のテーマでもある吉浜橋と花園橋あたりですが、
元々ぐっと曲がって大岡川本流に戻る形で蛇行していました。
開港場ができあがると、中村川をまっすぐ海まで延ばします。
長崎の出島のように運河で居留地を囲む目的と 中村川の氾濫防止の役割を持っていました。
この中村川新河口の南側が元町、北側が中華街として発展します。
※中華街の街路が他のエリアと方角が違いますが
 俗説にある風水による街並ではなく
 街の形成時期のズレによるものです。
 (中華街誕生も別の機会に必ず紹介したいテーマです)

No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事

7月10日 (火) もう一つの大岡川


(余談)
大岡川のWiki内容の貧弱なことこの上ない!
http://ja.wikipedia.org/wiki/大岡川_(神奈川県)
ぜひ 詳しい方の記事追加をお願いします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/吉田新田

掘割川に関してWikiでは書きかけの表示が出されています。

普通はこれが適切な姿だと思います。
あまりに情報が足りません。
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現在は下記のサイトに移行中です。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/

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