2012年8月31日金曜日

No.244 8月31日(金)8ヶ月を振り返ります

今年1月1日から始めることになった「暦で綴る今日の横浜」も8ヶ月継続しました。ざくっと読み返して出来不出来に一喜一憂中ですが、誤記も数カ所有り修正したところです。
原則幕末から現在までの中で、テーマを探してきました。取り上げた年度を集計し表にしてみると、思ったより偏りの無いことに驚きました。

(テーマの年を追う)
作業の過程では、調べるのが面倒だった明治大正が印象に残っているためか、この時代に集中しているように感じましたが、戦後もかなりまんべんなくテーマが出てきているのには正直驚きました。日付で資料を追っかけていますから、年代のバランスは全く考えていません(られません)。

単年では2002年が最も多く7テーマ取り上げています。
No.36 2002 年 2月5日 栄枯盛衰
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/25.html
No.48 2002 年 2月17日 さよならYDL
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/217ydl.html
No.62 2002 年 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/32.html
No.103 2002 年 4月12日 「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/412.html
No.104 2002 年 4月13日 てな訳でお後がよろしいようで。
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/413.html
No.161 2002 年 6月9日 日本、ロシアに勝利!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no16169.html
No.239 2002 年 8月26日 タマちゃん調べ出したら止まらない
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no239826.html

(もっと調べて拡張したいテーマ)
読み返してみて、このテーマは面白い!と思うものも幾つかあります。フィクション、ノンフィクションどちらでも拡げたら味が出そうなテーマを幾つかチョイスしてみました。
No.49 2月18日 (土) 過去に学ばないものは過ちを繰り返す
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/218.html

No.85 3月25日 (日) 日本の運命を変えた男横浜に入港
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/325.html

No.108 4月17日 (火) 活きる鉄の永い物語
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/417.html

No.122 5月1日 (火) ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男 http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/05/no12251.html

No.169 6月17日 (日) 私は武器を売らない
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no169617.html

No.204 7月22日 (日) 一生を世界一周に賭けた男
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no204-722.html

No.238 8月25日 (土) 日伊友好の歴史
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no238825.html

面白ネタのおすすめ

No.226 8月13日(月)西波止場の2勝1敗
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no226813.html


(8月31日ネタ)
1874年(明治7年)横浜新埋地公園の向側200番地で行われる予定のチャリュー氏の曲馬興行の広告がだされる。
1876年(明治9年)東海鎮守府が横浜の北仲通6丁目旧ドイツ領事館跡に仮設された
1911年(明治44年)新渡戸稲造(48歳)、
 横浜港から新造船の春洋丸で出航、アメリカに向かう。
 在米日本人会に招かれ、島田三郎も同じ船に乗る。
1919年(大正08年)大杉栄(34歳)、横浜に行き、
 吉田宅で開かれた出獄慰安会に出る。
1927年(昭和2年)石野瑛が吉田勘兵衛の墓碑を摂津豊能郡歌垣村に発見した。
1963年(昭和38年)大桟橋総合ビル完成
1983年(昭和58年)帆船日本丸、横浜誘致決定

これで3分の2終了しました。手元の資料も枯渇?してきましたが
一日一日を大切に 精進します。

2012年8月30日木曜日

No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日

日本の一番長い日が1945年(昭和20年)8月15日なら、
横浜の一番長い日を8月30日に見ることができます。
横浜の戦後は
マッカーサーとアイケルバーガーの二人から始まります。
1945年(昭和20年)8月30日
厚木に降り立ったマッカーサーが一路横浜を目指し、ニューグランドホテルが彼の執務室になった事は有名です。
一方、GHQ本部のおかれた横浜税関に向かい、
占領政策の実務を担当したのがアイケルバーガー中将です。
有名な厚木飛行場のマッカーサー
8月30日のマッカーサーは話題が豊富です。
計算されているようで気まぐれなパフォーマンスの多い
“コーンパイプ”の男は厚木に降り立ちます。
その時に行った冷静な記者会見「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。…」の後、厚木から当初の予定地である葉山御用邸に入る計画を変更し、長後街道、国道1号経由で横浜のニューグランドホテルに入ります。
三日間ホテルニューグランド315号室に逗留したマッカーサーは、実質の滞在先を山手に移します。(急な変更で準備が間に合わなかったためホテルに?)
※マッカーサーは戦前家族で数回来日しています。ホテルニューグランドにもここに一度二回宿泊したことがあります。(訂正してお詫びします)
1945年(昭和20年)9月2日に日本と連合国との間で“休戦協定”締結後の9月16日連合国軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転。彼は活動拠点を皇居前の第一生命ビル内の執務室に移し1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部総司令官(General Head Quarters of the Supreme Commander of Allied Powers)として日本占領政策に大きな影響力を行使します。マッカーサー執務室は当初、旧前田侯爵邸洋館(駒場公園)におかれる予定でしたが、セキュリティの理由から変更されたとありますが、ダグのお眼鏡に合わなかったのかもしれません。
日本最初のGHQ本部となった横浜税関
超有名なマッカーサーに比べ、
米第八軍司令官ロバート・ローレンス・アイケルバーガー(Robert awrence Eichelberger:1886年3月9日〜1961年9月25日)中将(着任当時)は、地味な存在です。
Eichelberger (Christopher W. Hart)
米第八軍は現在も韓国に主力部隊を駐留させているアジア有数のアメリカ陸軍の部隊の一つで、戦後の日本占領任務を担いました。
もともと米軍(連合国)は、ダウンフォール作戦(本土上陸作戦)をマッカーサーの下で進めていました。
(ダウンフォール作戦の図)
ダウンフォール作戦は二つの上陸作戦で構成されています。
ウォルター・クルーガー大将(Walter Krueger, 1881年1月26日〜1967年8月20日)率いる米第六軍をまず九州から侵攻させる「オリンピック作戦」を行い、引き続き相模湾から首都東京に侵攻する「コロネット作戦」をアイケルバーガー中将の指揮で行うというものでした。
日本侵攻後は、
糸魚川〜小田原を結ぶ線以西の西日本を第6軍が、
東日本を第8軍が占領任務を担任することになっていました。

日本がポツダム宣言を受諾することでダウンフォール作戦決行は直前で中止されます。
攻撃論もありましたが、ソ連に先んじ日本全土を占領できると判断しマッカーサーは無血占領に舵を切ります。(これには議論があります)
そして、アイケルバーガー中将はマッカーサーと共に戦うこと無く厚木の土を踏みます。

事前に先遣隊が連合国軍本部を「横浜税関」に決め、アイケルバーガーはここに乗り込むことになります。
連合国軍本部は9月16日までの短い期間ですが、まさに占領任務の第一歩はここから行われたことになります。
その後、マッカーサーとアイケルバーガーの運命は別の方向に別れていきます。
大統領選の野望に破れたマッカーサーは、教条的とも思える占領政策に固執し朝鮮戦争にのめり込み解任。
アイケルバーガーは、マッカーサーと対日施策で意見が合わず着任まもなくの1948年に解任され本国に戻ります。

「占領 1945〜1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人  」の中で著者、ハワード・B・ショーンバーガー(宮崎章:訳)は
「アメリカに代表部を置くことを禁じられていた戦後の日本政府高官や、銀行家・産業家といった日本政府の支持者たちは、 アメリカ国内のまだ見ぬ同志に訴えるべく、改革指向の最高司令官を出し抜く方法を探っていた。 窓口の一つはロバート・L・アイケルバーカー陸軍中将だった。 彼はジャパン・ロビーと親しく、一九四七年以降マッカーサーとは敵対的になっていたのである。 四八年夏まで第八軍司令官だったアイケルバーガーは、横浜に司令部があったため、 総司令部からはある程度自由に動くことができ、陸軍省と直接連絡をとることもできた。 占領軍の行う政治改革・経済改革のほとんどに反感を持っていた吉田首相、それに芦田均外相や終戦連絡横浜事務局の事務局長鈴木九萬は アイケルバーガーと親しく、彼の助言や支援をしきりに利用した。」(p178引用)

相模湾侵攻の「コロネット作戦」に関しては
有隣新書「相模湾上陸作戦」が詳しいです。

No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/06/no18162935.html

2012年8月29日水曜日

No.242 8月29日(水)そそっかしい!

1999年(平成11年)8月29日(日)の今日は戸塚駅〜湘南台駅間(1号線)が開業しブルーライン全線(あざみ野〜湘南台間)が開通しました。
延伸計画があるので、この全線という表現は微妙に不正確ですが、着工していませんので全線開通としておきます。そして、
この全線開通の日にもう一つの市営地下鉄の“できごと”がありました。

まずは、横浜市営地下鉄ブルーラインについてご紹介しましょう。
現在横浜市営地下鉄線は二つの系統があります。
海の近くを走る「ブルーライン」と丘の横浜を環状線で走る「グリーンライン」です。ブルー、グリーンの色で区分けする愛称は、2006年(平成18年)に公募で決まりました。

(ブルーラインの歴史)
1972年(昭和47年)12月16日に伊勢佐木長者町駅と上大岡駅間がまず開通しました。
市営地下鉄の管理部門は「伊勢佐木長者町駅」にあります。
この伊勢佐木長者町駅〜上大岡駅間を起点に延長工事が進められます。
1976年(昭和51年)に上永谷駅間〜横浜駅が開通します。
1985年(昭和60年)に市営地下鉄の“売り”になる「新横浜駅」まで開通し、関内・横浜駅からJRより手軽で早くアクセスできる事をPRします。この新横浜直結!の“売り”は、新幹線利用者には大変便利で、乗降客増につながったのではないでしょうか。
※当時、JR横浜線は"横浜"線なのに、東神奈川までしか行かない!ため乗換が不便でした。(今も直行以外はめちゃ不便ですが)

1989年(平成元年)横浜博覧会の会期中に戸塚駅が開通し、幹線駅との接続が実現します。
1993年(平成5年)に東急田園都市線と接続する「あざみ野」駅が開通します。当時、田園都市線は「たまプラーザ駅」の開発が進み、規模的にも地下鉄接続に相応しいのではないか?と素朴に考えましたが、東急電鉄と横浜市の思惑が合わなかったようで、急行の停まらない「あざみ野駅」乗換となってしまいました。

1999年(平成11年)8月29日にようやく湘南台駅〜あざみ野駅までが開通します。戸塚駅〜湘南台駅間の開通は、様々な方面に影響を与えます。泉区の交通アクセスが相鉄いずみ野線と合わせて一気に良くなり、生活環境が激変します。これに刺激される形で難航していた「戸塚駅前再開発計画」も前進します。

当初赤字借金路線と市民の大きな批判に晒された「市営地下鉄計画」ですが、横浜市18区全体の市民生活の向上には横浜駅から放射状にしか伸びていない鉄道網を環状で繋ぐ(特にグリーンライン計画)意味は大きいといえるでしょう。経営も黒字化し順調に乗降客数も伸びているようです。

話しは前後しますが、ブルーラインの横浜駅〜あざみ野駅間、グリーンラインの日吉駅〜中山駅間は「港北ニュータウン計画」に欠かせない路線でもありました。
No.240 8月27日(月)横浜で重い!場所
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no240827.html

(そそっかしい?!)
本日の表題に入ります。
1999年(平成11年)8月29日のブルーライン開通に合わせ駅名の変更が行われました。
開通して25年くらいで駅名を変更するということは大きな理由が無ければ!普通はありえませんが、苦情が多かったのか?駅員が根をあげたのか?
「新横浜北駅」を「北新横浜駅」に改称します。
理由は、新横浜駅と間違える乗客が後を絶たなかったためなんですが、
実は私も一回居眠りで間違って飛び降りた経験があります。
車内放送「つぎは しんよこはまきた」より「つぎは きたしんよこはま」の方が間違え難いことは確かですね。
間違えやすいから駅名変更?も珍しいのではないでしょうか?
でも、
市営地下鉄には「三ツ沢下町駅」「三ツ沢上町駅」
金沢シーサイド線では「海の公園柴口駅」「海の公園南口駅」ってのがありますが、乗換重要度から行くと「新横浜北」に間違って降りた場合のダメージは大きそうですね。
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現在は下記のサイトに移行中です。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/

2012年8月28日火曜日

No.241 8月28日(火)駅を降りたら、国際港 復活(その2)

現在国際空港行き専用急行便が走っているように、
かつて横浜港と東京を結ぶ専用路線(臨港鉄道)がありました。
1920年(大正9年)7月23日に運行開始、戦争とともに廃止されます。
戦後、国際港から太平洋航路が復活とともに短い期間でしたが1957年(昭和32年)8月28日から1960年(昭和35年)8月27日まで東京駅〜横浜港駅間にボート・トレインが復活しました。

横浜の港湾施設と東京を結んだ「臨港鉄道」についてはこれまで何度か紹介しています。
No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no205-723.html

No.62 3月2日 (金) みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/32.html

ここでは、ボート・トレインの1920年(大正9年)7月23日から1960年(昭和35年)8月27日までの歴史の中で、復活の3年間に注目します。

(北太平洋航路の復活)
1953年(昭和28年)7月22日に横浜港から一隻の客船が、北米・シアトルに向けて出港しました。北米航路の女王とよばれた「氷川丸」の復活です。戦争前夜の1941年(昭和16年)の夏に航路が休止されてから、12年ぶりのことです。黄金時代の北米航路は「平安丸」「日枝丸」と合わせて3隻で運行されていましたが、この2隻は戦時徴用で沈没し「氷川丸」だけが生き残ります。

■最後の氷川丸
1953年(昭和28年)6月三菱造船で復帰のために大改装されます。
  7月22日に横浜〜シアトル航路に定期貨客船として復帰します。
1953年(昭和28年)〜1960年(昭和35年)多くのフルブライト交換留学生を乗せました。
1959年(昭和34年)7月26日第52次航で宝塚歌劇団北アメリカ・カナダ公演のメンバーが乗船し桟橋は五千人を越えるファンで埋め尽くされました。
寿美 花代(すみ はなよ)、浜 木綿子(はま ゆうこ)他
演目は「花の踊り」「四つのファンタジア」「宝塚踊り」だったそうです。
そして
1960年(昭和35年)第60次航をもって運航を終了します。同時に日本郵船もシアトル航路から撤退することになります。
■氷川丸を支えた臨港鉄道

「氷川丸」復活で日本郵船から国鉄に要請があり、1957年(昭和32年)8月28日から「横浜〜シアトル間」の航路に接続して復活運行されたのが「東京駅〜横浜港駅間」の横浜臨港線でした。
氷川丸出入港に合わせて運行されるので、時刻表には掲載されていなかったそうです。
東京駅10番ホーム〜横浜港駅間を約40分で結びました。東京駅10番ホームは現在も東海道本線特急急行用ホームとして利用されています。

通常はC58蒸気機関車に4両編成で運行されていましたが、1959年の宝塚歌劇団の時には10両編成にしてファンに備えたそうです。

東京駅10番線発車メロディー
http://www.youtube.com/watch?v=wlBlQEjWt2k


【もうひとつの8月28日】
1970年(昭和45年)8月28日
大岡川分水路建設工事起工式が挙行されました。

No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no192710.html

No.187 7月5日(木) 目で見る運河
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no18775.html


2012年8月27日月曜日

No.240 8月27日(月)横浜で重い!場所

車歩分離とグリーンマトリックス?
聞き慣れないことばかもしれません。
“まちづくり”に欠かせないキーワードの一つです。
その実践事例が横浜市都筑区に位置する「港北ニュータウン」です。
1974年(昭和49年)8月27日のこの日、建設省に提出されていた港北ニュータウン計画申請の事業認可が建設大臣から下り着工が始まりました。
計画発表から約10年目のことでした。

(港北ニュータウン)
現在、都筑区内の丘陵地に広がる港北ニュータウンは、市の中心部から北北西約12km、都心から南西25kmに位置します。
計画地の広さは約2,530haあり、1965年(昭和40年)2月25日に六大事業の一つとして発表されました。
No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/227.html

元々、農地と林野に多数の地権者がおり、ニュータウンに必要な区画整理事業は成功しないだろうと予測する声も多かった計画でした。
しかも手間と時間はかかるが住民側の意向を活かした「申出換地」という当時としては新しい手法で区画整理が実施されることになりました。
地権者と住民が参加する街づくりは、当時としては画期的な推進方法といえるでしょう。

東急の五島慶太も夢見た事業です。
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/119.html

港北ニュータウンの特徴は「車歩分離」の徹底といえます。
住宅地と車道の分離により歩行ゾーンを確保し開放感のある生活空間を実現しました。
中でも「グリーンマトリックスシステム」の採用で、既存の緑と公園緑地・緑地・せせらぎなどの緑を有効に“繋ぐ”連続的な緑地帯を確保(オープンスペース計画)し、さらに歴史的な遺産やもともとある水系なども、地区全体の空間構成に活かす街づくりの考え方です。
この軸となっている緑道は、ニュータウン全体で五本、全長約14.5kmに及び日本一の長さを誇るといわれています。
日本のニュータウン計画ってめちゃくちゃ多い
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本のニュータウン

中でも300haを超えるニュータウンは全国に約40数地区あります。その中で、港北ニュータウンは比較的後発の部類に入ります。
これが遅れた分過去の経験を踏まえた計画を多数取り入れていった結果、現在でも横浜市の人口増加、集中を一手に引き受けている人気住宅ゾーンです。

問題が無い訳ではありません。
他のニュータウン問題に比べ遅れて到来しつつある高齢化への対応、地域コミュニティ形成の難しさ、防犯、車歩分離の弊害等々、いろいろありますが市内では最も元気のあるエリアです。
港北ニュータウンの進化で
横浜市の人口重心調査の変化が起きています。
※人口重心とは、人口の1人1人が同じ重さを持つと仮定して、その地域内の人口が、全体として平衡を保つことのできる点をいいます。経年的に地域の変化を評価する指針として活用することが出来ます。
例えば、今年の日本全体の人口重心は、311でおそらく大きく変化しています。
急激な変化は、社会にきしみをもたらします。
人は理由無く居住地を変えることは無いからです。

この先 横浜の 重心は どう変化していくのでしょうか?


2012年8月26日日曜日

No.239 8月26日 (日)タマちゃん調べ出したら止まらない


覚えていますか?
2002年(平成14年)8月25日から2003年(平成15年)3月14日にかけて横浜市内の河川に現れたアゴヒゲアザラシのタマちゃんのこと。
2002年(平成14年)8月26日の今日、全国に報道された日です。
(※25日、26日不明ですが 26日付けで紹介します)と
気軽に今日は夏休みを兼ねて30分くらいで作成し流そうと思っていたら大間違い。
徹夜して調べてしまいました。

本にもなった「タマちゃん」けやき出版
「タマちゃーん」と声をかける子供達。テレビニュースでも連日の「タマちゃん」報道合戦が始まりました。
そのそもこの「タマちゃん」騒動は2002年(平成14年)8月7日に多摩川の丸子橋付近で発見されフジテレビで報道されたことがキッカケです。
10日後、17日で一旦「タマちゃん」が多摩川から姿を消します。

ところが、横浜市内の鶴見川水系で8月25日再登場情報が寄せられ「タマちゃん」フィーバーにまたまた火がつきます。大綱橋付近、鷹野大橋で多くの発見情報、TVのカメラ映像もしっかり「タマちゃん」を流します。
専門家も登場し“オスのアゴヒゲアザラシ”であることが確定します。
アゴヒゲアザラシ
Wikiでは
アゴヒゲアザラシ(顎鬚海豹)はアザラシ科アゴヒゲアザラシ属に属する海棲ほ乳類。北極海周辺からベーリング海、オホーツク海に分布するアザラシ。個体数は50万頭で半数がアラスカ海域に生息する。
spaceaero2(徳島県那賀川河口付近のナカちゃん)
ざくっと横浜登場以降のタマちゃん
2002年8月25日〜8月30日(鶴見川)
2002年9月12日〜9月13日(帷子川)
2002年9月15日〜9月24日(大岡川)
2002年9月29日〜2003年3月14日(帷子川)
※2002年新語・流行語大賞の年間大賞に選出
※2003年03月11日に捕獲騒動が発生します。
 さすがタマちゃん騒動を避け、消えます。

(埼玉県へ転出)
2003年4月20日〜4月23日 (中川)
埼玉県越谷市東町5丁目の中川に登場。
2003年4月30日〜4月12日 (荒川)
5月4日発見の情報もあります。(朝霞市上内間木付近)
当時、赤い糸がついた釣り針が右目尻付近に刺さっていたことで心配する声、報道でいっぱいでした。
※これらの発見された「タマちゃん」が同一かどうか?DNA鑑定までしているそうです。(結果 同一とのこと)

「タマちゃんと挨拶?!」取材の話
http://www.abn-tv.co.jp/column/naisyo/index.htm?id=6

パンになったり、都市伝説になったり、一騒動起ったタマちゃん、極めつけは「住民票」と「捕獲騒動」でしょう。

■特別住民票
鶴見川に現れた「タマちゃん」2003年2月12日横浜市より特別住民票を与えられ西区民となります。

登録氏名は西玉夫(にし たまお)さん。
これには住民基本台帳コードも付番したとのこと。
実はちょうどこの頃“住基ネット問題”勃発中で「横浜市」は「安全が確認できない」理由で全員データ送信を見送ったばかり。
2006年5月になってようやく、「安全が確認された」として未送信だった82万人のデータを総務省に送信した経緯があります。「西玉夫」氏の登録は総務省への痛烈なイヤミ?だったのかも。
※住民票発行の根拠となる法律は存在しないらしい。 法的には市町村や特別区が配付する広報印刷物の一種にすぎない?
これ以後、各地で発見された野生動物の出没で特別住民票を発行する自治体が相次ぎます。
■ウタちゃん(2002年(平成14年)9月19日)
ウタちゃんは宮城県本吉郡歌津町(現・南三陸町)の伊里前川に2002年9月19日から3日間いたワモンアザラシの子供。
■カジちゃん(2002年(平成14年)12月30日)
那珂川に現れたアゴヒゲアザラシ。
カジちゃん、せいちゃんは、2002年(平成14年)12月30日頃から新潟県北蒲原郡聖籠町次第浜の加治川の河口付近に出没していたゴマフアザラシである。体長約80cmで子供とみられる。
■ナカちゃん(最初の発見は不明)
ナカちゃん( 2006年8月27日まで)は、2005年11月2日に徳島県那賀郡那賀川町(現・阿南市)の那賀川の中州に現れたメスのアゴヒゲアザラシのこと。特別住民票上の氏名はです。
「ナカちゃん」に関してはこんな対応に関する文書が出されています。皆さん大変ですね。
アゴヒゲアザラシ「ナカちゃん」に係わる事務所の対応について
平成17年 那賀川河川事務所
http://www.skr.mlit.go.jp/kikaku/kenkyu/h18/pdf/ronbun09.pdf

そして、この「タマちゃん」騒動は、広報戦略(ペイドパブ)だったそうです。
あなたは「PR」を知っていますか?
http://www.city.kawasaki.jp/20/20bunken/home/site/jichi/suishin/suishin1/jsi03-img/jsi03_02kouenkaisiryo.pdf

河川ライブカメラ(多摩川のタマちゃんを映像で確認)
http://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/keihin_index034.html

確かに、全国で三番目に汚い川「鶴見川」(誤解、誤報)の喧伝は各方面に大きな影響がありましたからね。

「鶴見川」の水質はワースト3ではありません!(当時も)
http://www.tr-net.gr.jp/trネットの活動/鶴見川流域シンポジウム-鶴見川の水質ワースト1/7-相対評価・ワーストランクはもういらないので

「鶴見川の水質ワースト1は本当か?」
http://www.tr-net.gr.jp/trネットの活動/鶴見川流域シンポジウム-鶴見川の水質ワースト1

報道の力、思い込みの怖さ!再度考えてみましょう。

2012年8月25日土曜日

No.238 8月25日(土)日伊友好の歴史


今日8月25日は、イタリアと日本が1866年に通商条約を締結した日です。
同時に、
7年後の1873年(明治6年)8月25日にイタリア国王室が伊太利亜国軍軍艦ガリバルディ号で世界一周の途中、初めて(日本)横浜港を訪れた日でもあります。
この時代の日本と伊太利亜(イタリア)の関係について横浜を舞台に
少し紹介しましょう。

イタリア王国 国旗
日本とイタリアの出会いは?
13世紀に遡ります。
歴史上有名なイタリア人、マルコポーロが日本をジパングとして紹介した事に始まりますが彼は中国で日本を知り紹介どまりでした。
両国の通商が始まるキッカケとなったのが欧米列強の5カ国通商条約締結でした。イタリアも遅れて1866年8月25日(慶応2年7月16日)に日伊修好通商条約を締結します。締結目的はイタリアにとって、日本の絹が必要だったからです。
絹交易の歴史は「シルクロード」の名があるように6世紀から中国の上質な絹を求めてヨーロッパと中国の交易が盛んになります。
次第に自国でも絹の生産が行われるようになってきますが、中でも北イタリア地域の絹が生産力と技術力でブランド力を付けていきます。
現在でも世界有数の高級シルクの集積地が北イタリアのコモです。
(コモと横浜については最後のところで)
絹製品はヨーロッパの王室・貴族、中産階級に絶大な人気商品でした。ところが、1850年代の終わりから60年代初頭にかけてヨーロッパでは毎年蚕卵に悪疫が発生し、中でも絹産業が売り物だった北イタリアは、大打撃を受けます。すでにオランダ経由で日本の絹の水準を知っていたイタリアは積極的に日本との通商条約締結に動きます。
この時に通商使節として来日したマジェンタ号船長、海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨンは見聞録を著し、幕末の日本の様子をかなり好意的に紹介しています。通商条約締結によって日伊交易が開かれますが、締結直前の1860年までイタリアは群雄割拠の小国分立状態でした。1861年にサルデーニャ王国がイタリアを統一しイタリア国王が成立し、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一イタリアの国王となり、富国強兵のために絹産業の復活が急務だったのです。

1873年(明治6年)8月25日、横浜港に入港したガリバルディ号には、艦長デル・サント大佐以下乗船員とジェノバ公候トンマーゾ・アルベルト・ディ・サヴォイア殿下が乗船していました。
王室 紋章 これスカーフ?ですよね
彼らの詳細な行動記録は(未調査のため)不明ですが、世界一周の途中日本に立ち寄ったものです。

(ジェノバ公候)
トンマーゾ・アルベルト・ディ・サヴォイア殿下はイタリア王国の王族で、第2代ジェノヴァ公です。1854年2月6日生まれで、横浜港を訪れたときは、19歳の若さでした。

1869年(明治2年)に欧米列強の中では最後となった日墺修好通商航海条約のオーストリアも世界一周の途中に横浜港を訪れます。
No.231 8月18日 (土)give a twenty‐one gun salute.
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no231-818-give-twentyone-gun-salute.html
この時代は、軍艦による世界一周は“国力”を誇示する重要な軍事プレゼンスでもありました。アメリカ海軍による太平洋艦隊の大プレゼンス(1908年)は有名です。(別項10月18 日で紹介します)

1873年(明治6年)にイタリア皇室が横浜に入港した同時期、1873年(明治6年)の5月から6月にかけて日本の岩倉使節団が10番目の公式訪問国イタリアを訪れ、約一か月間滞在し9月に横浜に帰港します。

(コモ・ヨコハマ)
北イタリア、スイスに隣接するコモは、古代よりローマ帝国皇帝やユリウス・カエサルが保養のために訪れた高級リゾート地であると同時に、シルク製品の集積・生産地としてトップブランドを誇っています。
コモのシルク産業の歴史は16世紀にまで遡ります。桑の栽培、養蚕にはじまり、18世紀にはシルク製品の生産を開始します。
他のシルク生産地が(中国の上質で安い絹に負け)産縮小する中こつこつと歩みを重ね、1861年イタリア統一を経た戦後、最盛期を迎えます。
かつてはネクタイ等の「先染織物」産地として有名でしたが、近年「後染織物」が主流となっています。織り上げた生地に染色やプリントを施した衣服やスカーフなどを生産、アルマーニやグッチ、プラダ等のイタリア・モード・ファッションの供給基地の役割を担いヨーロッパのシルク製品市場の約80%を占めていましたが、欧州不況でシルク産業が急激に縮小し危機的状況と言われています。

実はコモと(かつて)並び称されたのが横浜のシルク産業、中でも型染めの捺染はコモかヨコハマかと競った時代がありました。戦後、世界の需要が中国、ベトナム産にシフトし横浜捺染業界は一気に縮小します。
が、それでも 技術力・開発力のある企業は横浜もコモも同様に生き残っています。
(横浜とシルクのテーマも欠かせません。どこかでまとめたいと思います)


(余談)
横浜・イタリアといえば ナポリタン!ですね。横浜ニューグランドホテル発の洋食ナポリタンは、横浜オリジナル!です。
http://naporitan.org

2012年8月24日金曜日

No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!

1996年(平成8年)8月24日(土)の今日、
二日間にわたって開催された横浜防災キャンプ96がこどもの国特設会場で行われましました。
670人の参加者が真っ暗闇と野宿を通して被災体験をしました。

今年も9月1日は、
平成25年第34回九都県市合同防災訓練です。
参加されない方もちょっと意識を防災に向けてみましょう。
http://www.9tokenshi-bousai.jp/kunren/
幹事都県市は千葉市です。

5月5日のブログでも「横浜防災キャンプ96」について紹介しました。
No.126 5月5日 私がこどもの国を選んだ訳
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/05/no12655.html

内容が重なる部分もありますが、今日は

横浜防災キャンプ96の開催内容を紹介します。
(企画背景)
この企画背景には
1995年1月17日未明、関西を襲った阪神淡路大震災があります。
311東日本大震災の16年前の大惨事です。
私たちは阪神淡路の教訓を活かす事ができたのでしょうか?

あの阪神淡路大震災直後の
96年当時でも、関東の一般家庭では現実感がありませんでした。自治体の防災関係者も、市民の防災訓練への参加意識が低いことに危惧していました。そこに「有料の防災訓練」を横浜市に提案したのですから
企画当初、有料で防災訓練に参加者を集めるのは難しいと各方面から反対、企画変更を示唆されましたが、結果 670人もの参加者で行われました。
(実施概要)
開催日:1996年8月24日(土)から8月25日(日)
会 場:こどもの国総合グランド 横浜市青葉区奈良町
主 催:横浜防災キャンプ実行委員会
後 援:横浜市、横浜市医師会、横浜ボランティア協会、横浜YMCA、日本赤十字社、朝日新聞社、神奈川新聞社、産経新聞社、テレビ神奈川、東京新聞、日本経済新聞社、日本放送協会横浜放送局、毎日新聞社、読売新聞社、アールエフラジオ日本、エフエム横浜、TBS、東急ケーブルTV
特別協力:TBSラジオ、TBS緑山スタジオシティ
募集要項
 参加資格:横浜市内在住者、横浜市内勤務者で
 主に、親子または子供と保護者 子供は小学生以上
 未成年者単独の場合は保護者の同意書が必要
申込み方法:○月○日より、各区役所で配付される案内パンフレットの申込書に必要事項を記入の上、郵送にて申込み。
 申込書配付期間及び申込み期間:平成8年6月20日(木)より7月20日(土)
 (当日消印有効、申し込み者多数の場合抽選)
 募集人数:250組約1,000人
 参加費用:1組5,000円
 (4人まで、一泊二食、入場料、イベント参加費)
 追加一人1,000円
 駐車場あり(駐車料金別途500 円)
参加条件:テント持ち込み可、持ち込み品に制限あり。
詳細は申込みパンフレットを参照のこと。
実施内容(案):発災時訓練から避難・避難生活までを想定して、実際に体験する。
1.災害発生!あっ地震だ!(発災時訓練)
   青葉区総合防災訓練に体験参加

2.避難・避難所確保!被災したらどうする!

   総合グランドにテントを設営、寝る場所の確保。
3.腹が減っては戦ができぬ!
   横浜市災害対策車(炊飯車、給水車)などを使った夕食作り
  (横浜中華街発展会のご協力により、サバイバルクッキング教室)
4.暗闇体験
  真っ暗闇を体験、子供たちはナイトウォーク・スターウォッチング等を体験。
5.野宿
  不便・寝苦しさを克服しながら、被災の厳しさを体験
6.簡単朝食
  調理の要らない、パン・牛乳・カンパンで被災時朝食体験。
7.防災オリエンテーリング
 「こどもの国」を活用して、1周1時間程度のオリエンテーリングゲームから10のポイントを全てクリアすると、防災の基礎知識が学べる。
8.救急法指導、震度体験コーナーの設置
9.終了証 授与

【スケジュール】
 8月24日(土)午後1時現地集合
 8月25日(日)正午現地解散
  午後は、自由に園内利用可能
 ○当日、天候、諸条件により中止、内容変更もあります。
 ○同時に、準備、運営のボランティアも募集。

(ねらい)

模擬的ではありますが、被災体験をすることが最大の狙いでした。
当時、地域で実施されていた「防災訓練」は正直117以降も関心が低く参加者集めに苦労していました。

(実際参加者)

(参加者数)
有料参加者 163組630名 有料団体参加者 40名 計670名
ボランティアスタッフ 106名
事務局スタッフ  31名
各団体応援支援者 46名
行政職員支援   18名  
(イベント経費)
参加費
現金協賛が厳しい経済環境でもありましたので、様々な形で現物支給による運営を目標にしました。
 食事、炊き出しは 炊き出しボランティアの支援(横浜中華街発展会)
 調理機器は 防災クッキングカーを無償レンタル
 食材はJAから
 朝食は山崎製パン都筑工場、高梨乳業 等々の現物支給で賄いました。

■情報伝達体験

 プログラムは配布しません。
予定は全て会場の一角に情報壁新聞を掲示して伝達します。
会場には予定された<音>がありません。
参加者の中にはラジオを持ち込まれ、その音の大きさも重要な体験となりました。
個別の伝達に関しては、プラカード部隊を編成し野宿会場を周回します。

ミニラジオ局を開設し、ほぼ24時間放送を実施しました。(持ち込んだラジオで聞くことが出来ます)


■参加型

 参加者から食料配布ボランティアやプラカード部隊、掃除、壁新聞つくり等も当日募集しました。たまたま耳の不自由な方が参加されていたため、急遽手話ボランティアを会場内で募集し応募がある心温まる出会いもありました。

■防災キャンプで学んだこと

 理屈で判っていてもいざとなると体が動かないものです。
日常生活の中で、防災意識をゲーム感覚で持ち続けることが減災につながることです。
311で96年の防災キャンプを思い出して役立てていただいたファミリーがあったようです。企画者として 嬉しいことです。
今! 地震が発生したら  あなたはどうしますか?
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現在は下記に移動しました。


http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/

2012年8月23日木曜日

No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所


横浜の歴史は埋立ての歴史でもあります。
海に土地をつくり産業を興し、
陸に住宅をつくり成長してきました。
特に戦後早々に始まった
横浜湾岸埋立て計画の中核が“根岸湾”でした。
1963年(昭和38年)8月23日の今日、
石川島播磨重工業(株)が根岸湾埋立地に機械工場建設のための起工式を行い磯子工業地帯の中核企業となりました。

 横浜市港湾局資料から
1959年(昭和34年)2月に始まった根岸湾第一期埋立事業は、
4年半の時間をかけ延べ360万平米、約107億円の事業規模で進められました。
かつては海水浴で賑わった根岸湾ですが、大規模臨海工業地帯として全て埋め立てられ
「国際港都建設総合基幹計画」が進められます。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/m-learn/history0.html

企業誘致に成功し、東芝、NISSHIN oillio、日石(現在JX日鉱日石エネルギー)そして、石川島重工業(石川島播磨重工から現在IHI)が進出します。
進出企業の中でも、この第一期根岸湾埋立地の核となった石川島重工業は、
明治時代から横浜と縁の深い起業だということご存知でしょうか?

一枚の絵はがきに描かれた官営「横浜製鉄所」が現在の石川町近くに作られます。
その後、民間に払い下げられ最終的に“石川島重工”に買取られ東京に引越します。

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/417.html

当時、印刷革命が起こり「活字」製造が一大ビジネスとなります。

IT革命のようなものでしょう、新聞や雑誌は勿論企業、公官庁の文書も活字が使われるようになります。
活字で財を成した一人が「No.108」で紹介した平野富二です。
彼が東京佃島にあった水戸藩の造船所を買い取り民間企業として経営したのが石川島播磨重工の前身、石川島平野重工です。
佃島の対岸にある中央区明石町一帯は江戸の外国人居留地(築地居留地)があった場所でもあり多くの外国人、日本人が集まったところです。
外国政府関係者は不便な“横浜”より江戸城に近いこの場所を望みましたが、外国商社が横浜を離れなかったためあまり発展しませんでした。
キリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが多くこの地に入ったため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院らの発祥地となります。
余談ですが、慶應義塾大学の前身は1858年(安政5年)に築地鉄砲洲中津藩中屋敷の長屋に塾を開きます。(現在の聖路加病院あたり)
この時、福沢は正式に名前を付けず「無名塾」でした。慶応義塾と命名したのは慶応4年の4月、もうすでに明治維新が始まっていた年です。
福沢は何故?消え行く時代の名前を付けたのか、興味深いところです。

(浜に帰る)

1884年(明治17年)に横浜吉浜橋から移転した石川島重工は、
1963年(昭和38年)横浜市磯子区の埋立地に機械工場を建てます。
さらに2002年(平成14年)には、本社工場だった東京第一工場(豊洲)を閉鎖し横浜に事業を移管します。
横浜製鉄所時代から120年後のカムバックです。

石川島播磨重工は、明治時代からいわゆる財閥系には組みせず独立系と呼ばれてきました。(東芝との関係から三井との関係がありましたが)

自由な経営気風の下、様々なジャンルに参入します。
総合機械メーカーとして、宇宙開発からエネルギー、海洋製品、ビル、橋梁の他様々な分野に進出しています。
一般には地味な企業ですが、ドラマチックな歴史を持つ日本の基幹企業の代表といえるでしょう。

なぜ、いま、土光敏夫なのか

http://webheibon.jp/dokotoshio/2012/06/post-2.html
解体から復興へ──石川島再建に懸ける
土光敏夫
http://webheibon.jp/dokotoshio/2012/07/post-4.html

(余談)

■ホテル「ナビオス横浜」の大錨 
万国橋交差点にあるこの錨は、石川島播磨重工業(株)横浜工場(現(株)アイ・エイチ・アイ・アムテック横浜工場)から寄贈されたものです。
1971年に建造され中近東から日本へ原油を運搬した大型原油輸送船「高岡丸」(全長316m、幅50m、深さ25.5m、載貨重量215.850KT)に備え付けられられていたものと同型のもので重量は18.27KT、長さは4.8m、幅2.9mあります。

(余談2)

石川島播磨重工業株式会社は現在、アイ・エイチ・アイ、IHI Corporation)と言いますが、IHIのH(エイチ)は
Heavy IndustriesのHです。播磨のHではありません。
確かに
Ishikawajima-Harima Heavy Industries
IHHIですね。

2012年8月22日水曜日

No.235 8月22日 (水)103便とラジカル関東

1981年(昭和56年)8月22日(土)
台湾・台北松山空港発高雄行きの遠東航空103便ボーイング737-200(機体記号B-2603)が、台北を午前9:54に離陸して10数分後のことでした。
台北の南南西約150キロメートルの苗栗県三義郷上空高度22,000フィート(6,700メートル)を巡航中に突然空中分解し、山中に墜落しました。
乗客及び乗員合わせて110名全員が死亡する大惨事となりました。
この遠東航空103便で亡くなった乗客の中に一人の女性作家がいました。

向田邦子、享年51歳でした。
急ぐようにヒットを飛ばしていた彼女が、一回り円熟し次へのステップを歩み始めようとしていた矢先の事故でした。
1929年(昭和4年)11月28日東京都世田谷区若林に生まれ父の仕事の関係で全国を転々と引越を繰り返しながら育ちます。
大学を卒業後、映画雑誌編集記者を経て放送作家の道を歩みますが、駆け出しのフリー作家となった彼女は横浜野毛山のラジオ局に通い詰めた時期があります。
『洋楽のラジ関』ラジカル関東とも呼ばれたJORFラジオ関東です。
「ラジオ関東」は1958年(昭和33年)8月15日(金)に神奈川の独立系ラジオ局として横浜市西区老松町に設立され、この年の12月24日(水)から放送を開始しました。
ラジ関”草創期の1961年(昭和35年)に『森永フレッシュコーナー』という人気番組が登場します。
ここでDJとしてデビューした水垣洋子は個性的な甲高い声質で一躍人気タレントになり多くのファンを夢中にさせました。
この『森永フレッシュコーナー』の放送台本を手がけていたのが向田 邦子でした。
現在放送電波塔が野毛にあり社屋は長者町に移りました。
翌年の1962年(昭和37年)に始まるTBSラジオの「森繁の重役読本」脚本で脚本家として地位を確立する直前のことでした。
この「森繁の重役読本」は、1969年まで計2,448回放送されます。
この7年間の蓄積が、後の向田文学の基礎になります。
その後、
森繁主演の『だいこんの花』
久世光彦 演出のメガヒット『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』
『父の詫び状』(エッセイ)
NHKの奇才和田勉の『阿修羅のごとく』と70年代のテレビドラマをジャックします。

向田邦子の駆け出し時代を過ごしたラジ関は創設から60年代、自らの小説「海をみていたジョニー」に「ラジ関」をシーンに描いた五木寛之が番組の構成などを担当していたことは有名です。
※昭和55年/1980年上半期に「花の名前」その他2篇で第83回直木賞を受賞しますが、審査委員の一人が五木寛之でした。

また、大橋巨泉、前田武彦、はかま満緒(現在もアール・エフ・ラジオ日本で現役番組進行中)などその後のテレビ界をリードするメンバーが「ラジ関」に関わりました。
『洋楽のラジ関』黄金時代と言われたメンバーが輩出します。
残念ながら、今は「ラジオ関東」創設時ほどの横浜らしさは無くなってしまいました。「アール・エフ・ラジオ日本」と名称変更しその後、日本テレビの傘下で運営され(日本テレビ系ラジオ中波放送)、現在は東京のスタジオ発信がほとんどです。「YOKOHAMALohas」他横浜本社発の番組も僅かにありますが、さらに横浜らしさを追求して欲しいと思います。
http://www.jorf.co.jp
「アール・エフ・ラジオ日本」はネットでラジオが聞けます。
http://radiko.jp(一部著作権上配信されないものもあります)

(余談です)
遺品は「かごしま近代文学館」に寄付されましたが、向田の母・せいの意向だったそうです。
小学生の頃、父の赴任に伴い鹿児島県鹿児島市で数年を過ごします。
その時の思い出が代表作エッセイ『父の詫び状』に詳しく綴られています。
亡くなる直前に企画で鹿児島を訪問し「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい「故郷もどき」なのであろう。」と書き残した関係か
母は「鹿児島に嫁入りさせよう」と決めたようです。
http://www.k-kb.or.jp/kinmeru/index.html

2012年8月21日火曜日

【番外編】生麦、旧東海道を歩く

■準備編
散策日はできれば平日(月曜水曜を除く)の朝(午前10時くらいまで)出立がベストです。
理由は、散策ルートに「生麦魚河岸通り」「キリンビアビレッジ」があるからです。
「生麦魚河岸通り」は水曜日が定休のお店が多い。



店開きしている通りと閉まっている通りでは 全く別の表情です。
「キリンビアビレッジ」は月曜がお休みです。
http://www.kirin.co.jp/about/brewery/factory/yokohama/
(見学はネットでも予約できます)

■歴史編
生麦(なまむぎ)の地名はどこから?
諸説あります。
生麦の地名のいわれは、確定していません。
一般的に「地名のいわれ」には、その場所の歴史が反映しています。あまり厳密に考えず複数ある場合は、それらを全て楽しむのがベストです。
その地に因んだ呼び名の音(おん)に後で漢字をあてたりすることが良くありますが、ナマムギも貝が採れたことから「なまむき」が生麦にという説があります。
また、殿様が街道を通る際、ぬかるんでいた道に生の麦を敷き詰め一行を通したことからそのまま「生麦」となったという説、
古来砂丘を表す言葉に「ままむぎ」という語がありますがその音がなまって「なまむぎ」になった説の他にも幾つか説がありますが、それぞれにこの「なまむぎ」の地を表す特徴を示していますのでどれも楽しいものです。
(漁場 生麦)
江戸時代になり、街道筋が整備されてくると江戸・東海道筋の需要に応えるために近郊の農業や漁業が盛んになってきます。特に漁業に関しては江戸湾(東京湾)に八カ所の幕府認定の専用漁場がありました。その一つが「生麦」だったそうです。そのなごりというか、歴史を残しているのが「生麦魚河岸通り」です。

■ルート編
生麦散策のスタートは鶴見線「国道駅」から京浜急行「生麦駅」が手軽です。目的によっては逆コースも良いでしょう。

(テーマ1)
「生麦魚河岸通り」と「貝殻浜」を見て鶴見川河畔を歩く
貝殻浜はほんの一部だけ残してるだけ!(昔は迫力ありました)です。

(テーマ2)
「キリンビアビレッジ」見学を中心にする
http://www.kirin.co.jp/about/brewery/factory/yokohama/
最近ビオトープが完成しました。
ここのガス灯は、横浜で明治からガス灯を作っているマスオガス(現在東京ガスエネルギーフロント)さんが設置したものです。


(テーマ3)
杉山神社あたりまで足を延ばす(急階段です)。
 神社仏閣巡りには欠かせないアイテムです。

(食事は?)
お弁当派の場合は、「キリンビアビレッジ」の公園で食事できます。
レストランも完備していますし、勿論ビール試飲もできますよ。
生麦駅近辺にはレトロな食堂が幾つかあります。

(おみやげは?)
子育てまんじゅう
よねまんじゅう  



■サブコンテンツ
①「生麦魚河岸通り」朝市

②生麦陸橋(正式には生見尾人道橋)で 電車三昧(鉄道ファン向け)
JRが4路線(プラス1) 京急が1路線走る場所で、上り方向と下り方向の景色がまるで違うのもファンには垂涎ポイント?

③蛇も蚊も祭り
「蛇も蚊も祭り」は、鶴見生麦に伝わるお祭りで、昔は毎年6月6日に原・本宮地区が一緒に行っていましたが、明治の中頃から本宮の道念稲荷社と原の神明社の2ヶ所で別々に(同じ日)行われるようになったそうです。説明文も微妙に異なるところが 地域を二分した“こだわり”を見て取れます。

(道念稲荷社の看板)


横浜市指定無形民俗文化財
    蛇も蚊も(じゃもかも)
        平成4年11月1日指定
      行事の日 6月第1日曜日
      保存団体 本宮蛇も蚊も保存会
 蛇も蚊もは、約300年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、近年は6月の第1日曜日に行われるようになっています。
 萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで「蛇も蚊も出たけ、日和(ひより)の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、原地区(神明社)が雌蛇、本宮地区(稲荷神社)が雄蛇を作り、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は、両社別々の行事となっています。
    平成24年2月
            横浜市教育委員会

(神明社の看板)
横浜市指定無形民俗文化財
    蛇も蚊も(じゃもかも)
        平成4年11月1日指定
      行事の日 6月第1日曜日
      保存団体 生麦蛇も蚊も保存会
 蛇も蚊もは、約300年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の6月6日になり、近年は6月の第1日曜日に行われるようになっています。
 萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで「蛇も蚊も出たけ、日和(ひより)の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、原と本宮で一体づつ作り、原のものが雌蛇、本宮のものが雄蛇だといって、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は、両社別々の行事となっています。
    平成5年3月
            横浜市教育委員会
(オプション)
総持寺
鶴見線「海芝浦」
銭湯ファンにもおすすめ“湯”があります。
(生麦事件)関連
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no234-821.html