2013年1月24日木曜日

No.387 謎解き野口英世

野口英世と桜木町の関係を芋づる式に繋ぎます。
今日はちょっと“お遊び”します。
どこまで画像アップが合法なんですかね?
(千円)
1876年(明治9年)11月9日に福島県(現・猪苗代町)に生まれた細菌学者「野口英世」をご存知ですか?2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像にもなっていますから お札を見ればなるほどと思い出す方も多いかもしれません。

野口英世の略歴は以下の通りです。
「ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学者として数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞にも候補となること三度。黄熱病の研究中、自身も罹患し、1928年5月21日、アフリカのガーナのアクラにて死す。栄典は、正五位・勲二等・旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。キリスト者。 妻はメリー・ロレッタ・ダージス。 学歴は、猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了。」

(横浜勤務)
福島県人には申し訳ありませんが、野口英世は後世伝記となった美談とはかなり異なるキャラの持ち主で、特に放蕩癖は様々なトラブル、スキャンダルを起こしています。しかし、一方で豪放磊落、憎めないキャラでもあったようで、周囲に救われて様々な偉業を成し遂げています。
野口が横浜に来るキッカケも、放蕩が理由でした。

野口は、血清療法の開発などで最先端を行く北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)に務めていましたが、
1899年(明治32年)5月に事件が起ります。
伝染病研究所の蔵書が野口経由で貸し出された後に売却されてしまうという事件が発覚します。
この事件を問われ研究所内勤務から外されてしまいますが、北里柴三郎の計らいで横浜港検疫所検疫官補となるのです。
※短い期間ですがこの横浜港検疫所(長浜検疫所)が現在記念館として保全公開されています。
(強運の持ち主)
たまたま、9月に横浜港に入港した“あめりか丸”の清国人乗員にペスト患者がいることを発見・診断します。
この報を聞いた北里は、伝染病研究所に内務省より要請のあった 清国でのペスト対策国際防疫班メンバーに野口を選びます。
野口に失地回復のチャンスを与えたのでしょう。
ところが、放蕩の癖がむくむくと起ります。
支度金96円を出かける前に使い果たしてしまいます。
結局友人の血脇守之助に工面してもらい渡航することになります。この血脇守之助は桁違いの“お人好し”で、彼の月給の一部を学費にしたのを手始めに、自分の手術費・留学中に破棄した婚約持参金300円の返済まで面倒をみています。
アメリカに留学する際に横浜高島の「神風樓」で準備金を使い果たすといった放蕩のエピソードに枚挙にいとまがありません。
神風樓
それでも、研究分野では世界的評価を得ます。当時のアメリカ医学界では野口を指して「実験マシーン」とも呼ばれノーベル賞候補に三回もなります。

(米国時代の野口)
1900年(明治33年)放蕩を乗り越え、私費留学生として渡米します。アメリカ人女性と現地で結婚し、1904年からニューヨークにあるロックフェラー研究所に一等助手として勤務、黄熱病などの研究に励むことになります。

1915年(大正4年)勲四等旭日小綬章受賞のため一時帰国しますがすぐに、南アメリカやアフリカなど世界各地を飛び回って研究を続けることになります。
1928年(昭和3年)ガーナで自分自身が黄熱病にかかり死亡します。野口の遺体はロックフェラー財団の費用で厳重にパックされ、アメリカに送られニューヨーク郊外のウッドローン墓地(Woodlawn Cemetery)に埋葬されます。
このニューヨーク時代に出会い生涯の親友となったのが、同郷出身だった星一(ほし はじめ)です。

(星新一・森鴎外)
星一(ほし はじめ)は野口より三歳年下の1873年(明治6年)に福島に生まれます。
若くしてアメリカに渡り、苦学しながらコロンビア大学を卒業します。
帰国後、
1910年(明治43年)に星製薬株式会社を創業し、モルヒネやコカインといったアルカロイドの国産化を行い大成功を収めます。
後藤新平支援者として政敵であった加藤高明に経営妨害を受け個人破産します。それでも再起を目指しアメリカに渡り、そこで客死します。
このアメリカ時代に、野口英世と出会い、親友となります。
野口の一時帰国の費用はすべて星が持っています。
彼の長男が作家の星新一です。
彼の妻の母親(義母)が小金井喜美子で森鴎外の妹です。

少し長くなりましたが、
星一(ほし はじめ)の創業した星製薬株式会社はその後、復活し現在まで継続しています。
ただ、戦後1951年(昭和26年)星一の死去に伴い経営不振に陥ります。
経営を引き継いだ星親一(星新一の本名)が社長に就任しますが改善せず、経営権を大谷米太郎に譲ります。
この大谷一族が経営する「株式会社テーオーシー」が運営するTOCみなとみらいの核となる商業施設が2010年(平成22年)3月19日開業の
コレットマーレです。

ようやく野口英世から桜木町まで繋がりました。


No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA
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