2013年1月29日火曜日

No.392 サトウさん入門

アーネスト・メイソン・サトウなる人物をご存知ですか?
幕末から明治にかけて日本と深く関わった英国人です。
日系人?ジョン万次郎のような元日本人?
なんて思っている方いらっしゃいませんか?
今日は サトウさん入門です。
Sir Ernest Mason Satow
アーネスト・メイソン・サトウ
意外と誤解されているサトウさんは、
1843年6月30日(天保14年)に生まれ1929年(昭和4年)8月26日に亡くなりました。
勘違いされる理由の一つが、日本名を佐藤 愛之助(または薩道愛之助)などと名乗っていたことが挙げられます。
ドイツ系イギリス人としてロンドンに生まれました。
サトウさんは1862年9月8日(文久2年8月15日)に横浜に英国駐日公使館の通訳生として(通訳ではなく通訳になるため)着任します。
東禅寺事件
(通訳のサトウさん)
サトウさんは着任早々、大事件に遭遇します。
9月14日(8月21日)生麦事件の勃発です。
サトウさんはこの生麦事件と、数ヶ月前の6月26日(文久2年5月29日)に起った第二次東禅寺事件の賠償問題交渉団に通訳として加わります。
生麦事件は、薩摩藩の行列の前を横切ったイギリス人を殺傷した事件です。
第二次東禅寺事件(江戸高輪東禅寺)は、1861年に起った第一次東禅寺事件(水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件)についで起った事件です。
第一次事件でオールコックは公使館を横浜に移しますが、オールコック(一時帰国)の代理公使ジョン・ニール(強硬派)が安全確保ができないまま東禅寺に公使館を戻し、二次事件が起ってしまいます。襲撃では無く、東禅寺を幕府命により警備していた松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺するという幕府にとって全面的に不利な事件です。
幕府は警備責任者を処罰し、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉が行われている矢先に「生麦事件」が起ってしまうのです。
事件が立て続けに3件起り日英関係が最悪となります。
サトウさんは幕府との交渉に通訳として参加はしますが、研修中でほとんど通訳はできませんでした。ただ、日本との交渉会議に出席したことはその後のサトウさんに大変役立ちます。
その後、サトウさんは日本語能力を高め、初仕事は公式文書の翻訳でした。
幕府側から届いた手紙を翻訳します。
生麦事件等を早急に終結させるために1863年6月24日(文久3年5月9日)幕府に諮らず独断(英断?)で賠償金10万ポンドをイギリスに支払った肥前国唐津藩出身の老中「小笠原長行」からの手紙でした。内容は、将軍徳川家茂が孝明天皇に“5月10日を持って攘夷を行うと”約束したことをイギリス側に知らせる内容でした。
その後、
薩英戦争への従軍で薩摩藩船青鷹丸の拿捕現場、鹿児島の市街地大火災を目撃しかなりショックを受けます。どうも代理公使ニールとうまが合わなかったようです。サトウさんはイギリスに帰国するか日本にとどまるか悩みますが、オールコックが本国から帰任し引き続き日本に留まるよう説得され日本に残ることを決断します。
このオールコック公使の留意がサトウさんの重大な岐路となったのです。

オールコック公使によって、かなり自由な時間を与えられます。
ここからサトウさんの日本学習が始まります。親友イギリス人医師ウィリアム・ウィリスとの交遊を深め、伊藤博文(伊藤俊輔)・井上馨(志道聞多)とも交流を深めます。この頃かなり日本語が堪能になり「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名も使い始めるようになります。
(政治学者サトウさん)
横浜で発行されていた週刊英字新聞「ジャパン・タイムズ」に、1866年(慶應2年)3月から5月にかけて匿名で「英国策論」という論文を掲載します。
この「英国策論」は徳島藩士沼田寅三郎によって翻訳出版され、日本国内に影響を与えます。「明治維新の原型になるような一文」となったともいわれています。
骨子は
(1)将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
(2)独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
(3)現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
西郷隆盛、宇和島藩主だった伊達宗城らはこの「英国策論」に影響を受けます。

(外交官見習いサトウさん)
サトウさんはオールコック公使の後任パークス公使に随行し北海道・北陸等を視察し開港するための港選択の旅に出ます。
この頃から、通訳士の役割を越えた外交官のサトウさんの活躍が始まります。
明治に入り、休暇をとり母国に帰ります。
1870年11月(明治3年)賜暇を終えて日本に戻ったサトウさんは、
維新後の混乱する明治政府要人と英国の関係を確立する為に(代理公使)アダムズの通訳官として明治天皇、木戸孝允、岩倉具視らと会見、他新政府の要人(大隈重信、山尾庸三 他)と個人的に精に会い議論も重ねます。
同時に、関東一円を旅行し日本理解に努めます。この頃に出会った日本人女性「武田兼」さんと結婚しさらに日本への理解を深めます。
その後、シャム、ウルグアイ、モロッコの領事代理、領事を歴任し日本に戻ります。

(駐日特命全権公使)
1895年(明治28年)7月28日から1900年(明治33年)まで
サトウさんは駐日特命全権公使として東京に居を構えます。
この間、日清戦争、治外法権の撤廃(日英通商航海条約)などに立ち会い、
1904年(明治37年)2月8日に始まった
事実上の英露代理戦争だった「日露戦争」前の重要な外交判断を行っています。
同時期に日本にいたグラバーがビジネスで政治に関わり、サトウさんは外交官として日本外交に関わっていきました。

(日本研究の先駆者)
サトウさんは「英国における日本学の基礎を築いた」とも評価されています。
『英和口語辞典』『中部・北部日本旅行案内』『神道論』なども表し
英国の日本政策の一級資料にもなります。
彼は、全権公使時代の約5年、公私共に何回も横浜に出かけます。
彼の日記に、横浜の文字がでない月はありません。
例えば
1897年(明治30年)1月4日
横浜に行ってリード家で夕食をしてディンスデイル夫人の芝居「シンデレラ」を見に行く。大変面白かった。

芝居好きなサトウさんは、多くの友人と「横浜」での食事を楽しんでいます。
彼の好んだメニュー 再現できませんかね!?

(最後に)
ちょっと長くなってしまいましたが 駆け足でサトウさんのこと紹介してきました。
Ernest Mason Satowは Sirとなり枢密顧問官となります。
ローレンス・オリファントの著作「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れ、
1861年イギリス外務省(領事部門)に通訳生として入省した一般公募の職員だったのです。駐日公使オールコックとの出会いで清国北京で漢字学習に従事するところから彼の人生が開けます。
まだまだ階級社会だった英国で、サトウさんはまさにシンデレラボーイでもあります。
私も一部の資料しか読んでいませんが、横浜とサトウさんの関係は深いので、もっと多くの方にサトウさんを知って欲しいと思います。

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/08/no234-821.html

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