2013年8月15日木曜日

No.461 北海道=横浜を結ぶ点と線

北海道と横浜を結ぶ点と線、
幾つかご紹介しましょう。
北海道(ほっかい・どう)と使っていますが
他の都府県とは少し使われ方が違いますね。
「東京」「大阪」「神奈川」といったように略して表現することがありません。
「北海道」は「ほっかい」と「どう」ではなく
「ほっかいどう」と、一体となって歴史を歩んできました。
(北海道)
明治2年8月15日が北海道の記念日です。
1869年6月27日(明治2年5月18日)戊辰戦争の最後の戦場ととなった“箱館”の戦争が終結します。この箱館戦争の影に「咸臨丸」の悲劇があり
横浜・静岡そして函館を結ぶ物語を紹介しました。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no262-918.html
1869年9月20日(明治2年8月15日)
 明治新政府は太政官布告によって蝦夷地に「北海道」の名前を与えます。
 また北蝦夷地を「樺太」と改名します。
命名に際しては六つのネーミング案が提案されます。
 1 日高見
 2 北加伊
 3 海北
 4 海島
 5 東北
 6 千島
この中から  2の「北加伊(ほっかい)」をベースに
律令制の五幾七道(東海道、東北道、北陸道、山陰道、山陽道、西海道、南海道)にのっとり「北海道」の字をあてて採用されました。
「北海道」は、「道」と一体として現在まで使用されています。
この地図解説は次号で詳しく
(冒険家の北国)
江戸時代、正確な形で蝦夷地の地図を測量し制作した人物といえば
「伊能忠敬」と「間宮林蔵」ですね。
間宮林蔵は1799年(寛政11年)幕府の命で蝦夷地に20年以上滞在し、
蝦夷地、千島、樺太の測量にあたります。 
最大の成果は、1809年(文化6年)に間宮海峡を発見したことです。
何故か?
 ロシアの南下に対し領土の保全に苦慮、躍起になっていた幕府にとって蝦夷の地がロシアと陸続きではないことが判ったことが重要な国土防衛情報となったからです。
同時期、オランダ出島経由で日本に入ったシーボルトも
北方に地勢に重大な関心をよせていました。
シーボルトは林蔵の樺太の地図を複製し、海外に持ち出し林蔵の樺太の地図(複製)が世界地図にのるようになります。結果
アイヌ、和人の生活用具など、文化遺産、蠣崎波饗の夷酋列像の絵など収集した北海道の文化資産の存在や、間宮林蔵 本人の名が世界に知られることになります。
No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?
http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/07/no458.html
※間宮林蔵は終生 独身だったと伝えられていましたが
 1813年(文化10年)上川のタナシ(現・当麻スカイパーク付近)でアイヌ女性アシメノコを見そめ、翌年の文化11年に娘ニヌシマツが生れます。
子孫の(間見谷 喜昭)さん(72歳)が平成14年、林蔵の五代目に当ることがわかったそうです。

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/07/no212-730.html
スコットランド人の医師Neil Gordon Munro(ニール・ゴードン・マンロー)は、横浜三ツ沢貝塚研究で本格的な発掘調査をした人物ですが
1933年北海道に渡り、平取町二風谷(にぶたに)にマンロー邸を建てて医療活動を行いながらアイヌ文化を研究し保存に尽力します。
アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残したことは貴重な資料となっています。

さて、横浜と北海道の点と線
これは イントロに過ぎません。

さらにつづく 北海道と横浜を繋ぐ点と線は 次回に

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