2013年9月3日火曜日

9月3日 坂の上の星条旗 改題

清水港パフォーマンス
「長崎港を出たグラント一行は、7月2日に静岡の清水港で漁師達の投網漁のパフォーマンスを見て短時間ですが上陸します。このサプライズにグラントは感激します。このパフォーマンスを担当したのが山本長五郎、清水の次郎長でした。この“仕立て”には米国に渡った咸臨丸・咸臨丸を攻撃した米国製の蒸気戦艦富士山丸、それを斡旋した米国公使プルインのエピソードがあり、グラントはおそらくパフォーマンスの背景を聞いて大声を挙げて笑ったに違いありません。(別掲予定)」

No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)改題
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no24793.html


をもう少し詳しく紹介します。
このエピソードには 二隻の艦船と二人の人物が登場します。
●幕府軍艦 咸臨丸
●蒸気戦艦 富士山丸
●米国駐日公使プルイン
●米国駐日公使ジョン・アーマー・ビンガム(John Armor Bingham)
再度整理します。
日本を訪れたグラント将軍(元大統領)は、
静岡県清水に上陸し漁師達の投網漁のパフォーマンスを楽しみます。
そのパフォーマンスを用意したのが
グラントの盟友、米国駐日公使ジョン・ビンガムです。
母国ではホイッグ党(共和党)議員として 共に南北戦争を戦います。
グラントは将軍として北軍を率い 勝利に導きます。

パフォーマンスを仕切ったのが
清水の次郎長(山本長五郎)です。
明治に入り、かつての任侠は清水の町で英語塾を開くなど
地域の発展に大活躍します。
ここに登場したのが明治新政府と戦った幕府残党の乗る軍艦「咸臨丸」です。
「咸臨丸」が一番知られていますね。
1860年(万延元年)に木村摂津守以下に本チームが太平洋を横断した船です。
1860年(万延元年)はまさに南北戦争前夜で、
咸臨丸・ポーハタン号に乗船した日本人メンバーは、
アメリカ史上最悪の内戦直前のアメリカを視察することになります。

咸臨丸は
幕末期に江戸幕府が保有していた蒸気船で初期の軍艦として20年間幕府艦船として活躍しました。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/09/no262-918.html


1868年(明治元年)9月咸臨丸は清水港沖で、
 新政府の最新鋭軍艦「富士山丸」に追いつかれ攻撃を受けます。
この「富士山丸」
1862年10月14日(文久2年閏8月21日)幕府が米国に発注し
1866年1月23日(慶応元年12月7日)で横浜に到着した軍艦です。
殆ど戦争には使用されず
1868年(慶応4年)幕府が大政奉還に際し
明治政府へ「朝陽丸」「翔鶴丸」「観光丸」と共に上納されます。
この「富士山丸」実は納品直前に起った「下関事件」で
“差し止め”を受け納品が大幅に遅れます。
当時 初代米国公使タウンゼント・ハリスに代り
1861年、エイブラハム・リンカーン大統領はロバート・ヒューソン・プルインを第2代駐日米国公使に任命します。
1862年10月14日幕府がプルインを通して軍艦を発注します。
「富士山丸」はほぼ完成し、納品寸前の
1863年(文久3年)に長州藩が「下関事件」を起こし英仏米蘭との戦争に発展します。
結果は長州の完全敗北となりますが、この戦争の賠償金は“幕府”が負担することになります。
※背景には攘夷思想以外に国内の物価が高騰や大量の金流出による幕府の経済失政がありました。No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」http://tadkawakita.blogspot.jp/2013/08/no46619.html
→欧米4カ国に莫大な賠償金を支払うことになりますが、米国のみこの賠償金を国庫に入れず「債券」として貯金し、明治に入って“不当に得たもの”ということで日本政府に返還します。
幕末の転換期となった「下関戦争」は、米英の外交官にとっても転換期でした。下関攻撃を主導した英国公使オールコックは、本国の命令前に攻撃命令をだしたため、更迭されます。一方、米国駐日公使プルインは英国とは一線を画し日本情勢を冷静に分析します(〜1865年)。

この下関戦争返還金が横浜港の築港整備費用に充てられ、大さん橋ふ頭等が1894年(明治27年)に完成します。

グラント元大統領の対応に当たった駐日公使
ジョン・アーマー・ビンガムに関しては、近年詳細な記録が発見されました。
「ビンガム・ペーパーズ」と呼ばれ 現在資料分析が進んでいます。

ビンガム公使は
1873 年(明治6年)9月25 日、夫人(アマンダAmanda)及び2人の令嬢(エンマ
Emma及びマリーMarie)と共に着任します。
1885年(明治18 年)7月21 日に離任するまで12年間、歴代駐日外交官としては最も長い任期を務め上げました。
在任中は特に「不平等条約」の改正に尽力し日本政府を強力に『バックアップ』し、当時の英国公使パークスと徹底的に衝突した人物です。明治天皇は離任直前のビンガム公使を午餐に呼ぶなど信頼も厚かったようです。

ちょっと説明が下手で 判りにくかったかもしれません。
機会があれば もう少し判りやすく さらに背景も説明したいと思います。
今回はこれにて 御勘弁下さい。

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